名古屋スタバ番長&歴女なつです。



わたし、戦国時代の史跡を巡るのが大好きなんですが、

6月13日は大好きな武将の命日でした。

それに合わせたかのように、大河ドラマ「豊臣兄弟」では、

その武将、竹中半兵衛重治公が三木城攻略の最中、陣中でなくなるという回。


「さらば!半兵衛」


史実とはだいぶ違うものの、竹中半兵衛を演じる菅田将暉さんの演技力は素晴らしく、まあ、ちょっと、次の映画黒田官兵衛役の前振りか❓と思わないではなかったですが、号泣でした。


でも、今日は三木城攻略の最中、秀吉が見捨てたとされる、尼子克久についてのつぶやきブログです。


【上月城に援軍を出さなかった❓】


冷酷だと言われる織田信長。でも、実は意味もなく切り捨てるような冷酷さはわたしには感じません。

「失敗は武功でとりかえせ!」が信長の信念。

では、なぜ上月城を見捨てた!とされているのか。その背景は、、、、


 織田信長が救援を断念せざるを得なかった「天災」の真相歴史の教科書やドラマにおいて、織田信長が播磨の上月城(こうづきじょう)に籠城する尼子勝久・山中鹿之介(鹿介)らを見捨て、羽柴秀吉に撤退を命じたエピソードは、


「信長の冷徹な合理主義」


を示す代表例としてよく語られます。


「三木城の別所長治の謀反に対応するため、孤立した上月城を切り捨てた」という戦略的判断がクローズアップされがちですが、当時の一次史料を精査すると、そこにはもう一つの決定的な要因が浮かび上がってきます。


それが、「近畿地方を襲った未曾有の大雨と大洪水」です。


実は信長、冷酷に見捨てたどころか、「自ら大軍を率いて毛利との決戦に赴こうとしていた」←結構他の戦でもあるんです。でも、総大将がやられたら終わりなので、部下に引き留めらる。


のですが、天災によって物理的に足を止められていたのです。


 今回は、この歴史の裏側にあった災害と政治判断の連動について深掘りします。


1. 信長の本気


 自ら出陣し「天下の決戦」を挑む覚悟だった天正6年(1578年)4月、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春らが率いる数万の毛利軍が、織田方の最前線である上月城を包囲しました。

 この危機に際し、信長の動向を記録した『信長公記』には、信長が並々ならぬ決意を固めていたことが記されています。

 信長は、東国・西国から動員できる限りの軍勢を集め、「自分自身が播磨へ出陣し、毛利勢と天下の勝敗を決する決戦を行う」と宣言したのです。

 この時は、万が一の事態(総大将である信長の身の危険)を恐れた滝川一益や明智光秀らの重臣たちが「まずは我々が現地へ赴き、状況を確認して参ります」と必死に引き止めたため、信長本人の出陣は一度延期されました。

 しかし、信長が上月城救出(ひいては毛利討伐)に極めて前向きであったことは間違いありません。


2. 出陣の足足を完全に止めた「天正六年の京都大洪水」


 いよいよ戦況が深刻化し、秀吉からも救援要請が届く中、6月に入ると信長は再び自ら大軍を率いて播磨へ親征しようと試みます。

 しかし、まさにその出陣のタイミングで、近畿地方(特に京都周辺)を記録的な大雨が襲いました。

 当時の公家の日記や記録によると、この雨による被害は壊滅的なものでした。


⭐︎主要河川の氾濫:加茂川(鴨川)や大堰川(桂川)がことごとく決壊。


⭐︎インフラの崩壊:京都の東西を結ぶ重要な交通要衝であった「四条橋」などが激流で流失。


⭐︎街道の水没:京都から西国(山陽道・山陰道)へと続く主要な道路が完全に水没し、通行不能に。


 大軍を動かすためには、兵士が歩く道路だけでなく、大量の兵糧(食料)や武器を運ぶ輸送ルート(兵站)の確保が絶対条件です。

 しかし、この大洪水によって物流も軍事ルートも完全に遮断されてしまいました。 信長は出陣を断念せざるを得ず、しばらくの間、京都にとどまって大雨の被害状況の視察や、決壊したインフラの復旧作業の指揮に追われることになります。


3. 「天災」がもたらした冷徹な戦略転換


 信長が洪水によって足止めを食らっている間にも、上月城の状況は刻一刻と悪化していきました。

 東播磨では三木城の別所長治が謀反を起こしており、織田軍は前方の毛利軍と、後方の別所軍による「挟み撃ち」のリスクを抱えていました。

 これに加えて大洪水による出陣の遅れが決定的となり、もはや上月城へ大軍を送り込むタイミングを完全に逸してしまったのです。

 洪水が引き始めた6月16日、京都に駆けつけた秀吉に対し、信長はついに冷徹な命令を下します。


「上月城の陣を引き払い、三木城の攻略(別所攻め)を最優先せよ」


 この判断により、上月城は孤立無援となり、同年7月に開城。尼子勝久は自害し、山中鹿之介は捕らえられて処刑され、尼子氏再興の夢はここに潰えることとなりました。


まとめ:歴史を動かした「天気図」


 上月城の悲劇は、一般的には「信長が合理主義ゆえに尼子氏を切り捨てた」と解釈されがちです。

 しかし一次史料が語るリアルは、「助けに行こうと決意していたものの、未曾有の天災によって物理的に軍を動かせず、タイムリミットを迎えてしまった」という、極めて現実的な軍事・兵站の限界でした。


 もしもこの天正6年6月に大雨が降っていなければ、信長自らが播磨に乗り込み、上月城周辺で「織田対毛利」の世紀の大決戦が数年早く行われていたかもしれません。


 歴史を動かすのは武将の意思や戦略だけでなく、時に「天気」という抗えない要素であるということを、この上月城の戦いは現代に伝えています。


しかも、軍師竹中半兵衛の死を抱えていたとなれば、仕方ない判断だったのではと思います。





わたしは、このレジェンドオブバタフライが大好きです。

織田信長が胡蝶と幸せに海の向こうで生涯をとじていたと信じたいです。