捕虜を人道的に扱った習志野ドイツ人俘虜収容所、わずか3年後関東大震災時には朝鮮人収容所にされた
当時「先進国の仲間入り」をしようとしていた日本が国際法を守り、捕虜の方たちを人道的に扱った「ドイツ人俘虜収容所」の歴史は習志野市民にとって大切な歴史の1ページ
西郷隆盛の嫡男、西郷寅太郎が所長を務めていた習志野市ドイツ人俘虜収容所。当時「先進国の仲間入り」をしようとしていた日本が国際法を守り、捕虜の方たちを人道的に扱ったことが伝えられています。
そこで伝承されたソーセージの製法を今に伝える「習志野ソーセージ」、「捕虜オーケストラ」など感動的な逸話が伝えられ、船橋市にある習志野霊園では毎年日独協会による捕虜の慰霊祭が行われ、最近ではドイツ人捕虜のひ孫のジャーナリストが習志野市を訪れ、当時収容所で歌われていた歌を日本の皆さんと一緒に歌ったことが新聞にも報道され、話題になりました。
習志野市民にとって大切な歴史の1ページですね。
ところが、ドイツ人俘虜が故国に帰ってわずか3年後関東大震災の時には、「俘虜収容所」跡が「朝鮮人収容所」に使われ、大久保「プラッツ習志野」の場所で朝鮮人が虐殺された。習志野の黒歴史
関東大震災の混乱の中、騎兵連隊が出動し、朝鮮人を虐殺。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが流され、日本人の「自警団」も朝鮮人に襲いかかった
習志野の騎兵というと「日露戦争の栄光」だけで終ってしまうのが通例なのですが、もう一つ、書き落とすわけにはいかないことがあります。それは大正12年(1923)の関東大震災の折の出動です。
この年9月1日午前11時58分、南関東を巨大地震が襲いました。地盤が弱い横浜は壊滅し、東京市内ではあちこちで大火災が発生していました。折悪しく政府は、加藤友三郎首相が8月24日に病死したばかりで、この事態に即応することが出来ませんでした。摂政宮裕仁(ひろひと)親王(後の昭和天皇)は、外務大臣内田康哉(こうさい)を首相臨時代理とし、内務大臣水野錬太郎(みずのれんたろう)と警視総監赤池濃(あかいけあつし)を震災対策に当らせました。
※水野錬太郎も赤池濃も内務官僚。米騒動の時、水野は内務大臣でした。朝鮮全土に広がった「三・一万歳事件」のあと朝鮮総督府に二人とも送り込まれた(水野は総督府政務総監、赤池は総督府内務局長、警務局長を務めた)という経歴から、二人とも民衆の運動を恐怖し、過剰に弾圧した、とも言われています。
(米騒動)
(三・一独立運動)
しかし事態は悪化する一方で、翌2日、新たに海軍大将山本権兵衛(やまもとごんべえ、公称では、ごんのひょうえ)に組閣を命じます。ところが、これに一歩先んじて被災地に戒厳令が施行されてしまいます。戒厳というのは国内の一部に軍政を布くことで、通常の行政権は停止され戒厳司令官の命令下に入るのです。この時、被災地には「朝鮮人が井戸に毒を投じている」「朝鮮人テロリストが爆弾を投げている」といった噂がたちまち広がり、怒った市民が自警団を組織しては朝鮮人に襲いかかるという事件が頻発していたのです。大正8年(1919)には朝鮮で、三・一事件(朝鮮独立を求めるデモが半島全土で争乱となった)があったばかりなので、こうした噂がパニックの中で、かなりの真実味を持って受け止められたことは間違いありません。
なぜ新内閣の発足を待たずに軍政が開始されたのかは、一つの謎とされています。戒厳令は、単なる大災害では発動されるものではありません。東京では過去に1回(明治38年の日比谷焼打ち事件)、この後1回(昭和11年の二・二六事件)、そしてこの関東大震災と計3回、戒厳令が施行されたことがありますが、日比谷の焼打ちにしても二・二六事件にしても、内乱に近い状態、鎮圧すべき「敵」がいる状況での軍隊出動でした。関東大震災では朝鮮人暴動を対象と見込んだようですが、結果としてこれはデマだったのに、それとわかっても戒厳令は撤回されませんでした。そこで現在では、自然発生的なデマなどではなく、逆に、戒厳令ありきの政府が後付けで、朝鮮人の暴動などという虚偽情報を意図的に流したのではないか、と疑う歴史家すらいます。しかしまた、朝鮮の独立運動家の中には当時、爆弾闘争などのテロリズムを否定しない一派がいたことも事実であり、戒厳令が出された経緯については今後も議論が続くことでしょう。
※関東大震災の時、治安警察法で逮捕され、大逆罪にされた朝鮮人無政府主義者「朴烈(ぼくれつ、パクヨル)」を主人公にした映画が日本でも上映されました。
「金子文子と朴烈」(原題「박열 パク ヨル」)
こうした中、習志野の各騎兵連隊にも被災地への出動が命令されます。2日夜には、騎兵第15連隊の兵隊が南行徳村下江戸川橋際で朝鮮人3名を射殺、翌3日夕方には浦安村役場前で朝鮮人3名を射殺、4日夕方には下江戸川橋北詰で朝鮮人7名射殺といった記録が見られます。騎兵第15連隊は、その後、横浜に派遣され東神奈川でも朝鮮人殺害を行ったとされています。また東京では、小松川や四ツ木橋で習志野から来た騎兵連隊による虐殺があったと伝えられています。

(千葉県や東京での朝鮮人虐殺事件の聞き書きをまとめた本「いわれなく殺された人びと」)
編集部注:最近この本の新版が刊行されました。

(大震災時の朝鮮人虐殺をあつかった珍しいモノクロ映画「大虐殺」。天知茂さんが無政府主義者の青年を好演しました。)
隣の騎兵第16連隊で見習士官であったプロレタリア作家の越中谷利一(えっちゅうやりいち)は、「僕がいた習志野騎兵連隊が出動したのは、9月2日の時刻にして正午少し前頃であったろうか。とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて営門に整列するまでに所要時間僅かに30分しか与えられなかった。二日分の糧食及び馬糧、予備蹄鉄まで携行、実弾は60発。将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令したのであるから、さながら戦争気分…」と書き記しています(越中谷利一「関東大震災の思い出」)。つまり、各騎兵連隊に被災地への出動が命じられた、と言っても、それは罹災者の救援や被災施設の復旧のためではなく、戒厳令の対象と目される朝鮮人暴徒の鎮圧のために、軍事行動として出動したのだということがよくわかるのです。
朝鮮人ばかりでなく、社会主義者、無政府主義者も虐殺された
①甘粕事件
事態は朝鮮人だけではなく、まるで大震災が起こるのを事前に予知していたかのように、社会主義者の弾圧や中国人への加害にまで広がります。有名な甘粕事件(甘粕憲兵大尉がアナキストの大杉栄、伊藤野枝(のえ)らを殺害)をはじめ、罹災者(りさいしゃ)の救援などそっちのけで、どさくさまぎれに反体制活動家の殺害を始めるのです。

②亀戸事件と大島町事件
その一つに、亀戸事件があります。
当時まだ、東京府南葛飾郡亀戸町だった亀戸の警察署が、以前から労働争議で目をつけていた川合義虎(かわいよしとら)、平澤計七(ひらさわけいしち)ら10名の社会主義者をこの機に逮捕、留置していたところ、9月3日から4日にかけて、この地に出動してきた騎兵第13連隊が留置場内及び荒川放水路で刺殺してしまった、という事件です。
平澤の友人だった小説家、菊池寛は「あんなに落ち着いている思慮ある人が、ああした天災のとき、乱暴を働いたとは何(ど)うしても思われない。もっとも、人は不当に拘引すれば誰だって多少の抵抗はするだろう。それを理由にして殺すとすれば、あの場合誰だって殺しうる」(「文芸当座手帳」)と、怒りを隠さなかった。
また、亀戸の南、大島町でも事件が起こります。大島町事件といわれるものは、3日の午後3時ころ、大島八丁目で群衆と警官4、50名が 「約200人の鮮人団を連れてきて」その「始末」を協議していたところ、ここに行き合せた騎兵第14連隊の三浦孝三少尉以下11名がこの「鮮人団」を全員殺害してしまった、というものですが、ここで「鮮人(朝鮮人)」とされたのは、実は中国人(当時の言い方では支那人)ではなかったかと推測されています。ただでさえ震災で酸鼻(さんび)を極めている下町に、こうして血なまぐさい殺害事件が広がっていきました。
このあたりから、軍や警察も、朝鮮人暴動の話はどうやらデマではないかと気づき始めます。しかし情報を信じ込んでしまった自警団の怒りは収まらず、朝鮮独立運動とは関係ない朝鮮人、さらに朝鮮人ではないかと疑われた日本人まで殺害されるようになってしまいます。埼玉県の本庄では4日、警察署が多数の朝鮮人労働者らを保護したところ、警察署を取り囲んだ群衆約4千人が暴徒化して襲いかかり警察署に放火、署内にいた朝鮮人86名が逃げられず焼死した他、応戦した警察官も多くが重傷を負う、という事件まで発生してしまいます。
習志野捕虜収容所跡に朝鮮人、中国人を収容するよう軍が命令
こうした中で戒厳司令部(司令官・福田雅太郎大将)は、被災地にいる朝鮮人・中国人を、ひとまず保護収容することにします。収容先には習志野の、東新廠舎(3年前までドイツ捕虜が収容されていた)を使うことにしたようです。9月4日午前10時、第1師団長は騎兵第2旅団に
1.東京付近の朝鮮人は、習志野俘虜収容所に収容することに定めらる。
2.各隊はその警備地域附近の鮮人を適時収集し、国府台兵営に逓送す。
3.貴官は習志野衛戌(えいじゅ)地域残留部隊を以て、国府台にて鮮人を受領し、之を護送して廠舎に収容し、之が取締りに任ずべし。
4.鮮人の給養主食日糧米麦2合以内、賄料日額15銭以内とし、軍人に準じて取り扱うべし。
という命令を出しました。
③王希天事件
保護した朝鮮人・中国人を習志野に送る列が続きましたが、その中で今度は、王希天事件が起こります。中国人留学生の王希天(おう きてん、ワンシーティエン)はキリスト教徒で、中国人労働者が多かった大島町で彼らの生活を援助する社会活動をしていましたが、朝鮮人・中国人を習志野へ護送する任務を行っていた野戦重砲兵第1連隊(国府台)の依頼を受け、亀戸駅前に置かれた「支鮮人受領所」で護送業務に協力していました。ところがその後、亀戸警察署に拘束され、野戦重砲兵第1連隊の垣内八洲夫中尉に斬殺されてしまったという事件です。

王希天
習志野収容所で「保護」したはずの朝鮮人が八千代の村々に「払い下げ」られて、殺害された、という研究者
この王希天事件には騎兵は関わっていないようですが、不可解な殺害はさらに習志野でも続きます。保護収容されたはずの収容所から、何人かが引きずり出されては殺害されているのです。
この問題を研究してきた大竹米子さんは、習志野収容所で殺害されたのは不穏分子と見なされた16名であり、収容所内で殺されたのではなく、高津(たかつ)、大和田新田、萱田(かやだ)の村々(いずれも八千代市内)に「払い下げ」て、村人に殺させたのだと調べ上げています。また、保護収容というのも名目で、最初から反抗的な者をあぶり出し、殺害する目的だったのではないかとも考えておられるようです。

(2016年9月1日付け東京新聞記事)
習志野(大久保の墓地)でもあった、という會澤証言
こうした殺害は八千代市内だけでなく、習志野市内でも起ったと証言したのは、当時騎兵第16連隊にいた會澤泰氏(あいざわ やすし、後に習志野市議会議員)です。
関東大震災の時、ちょうど私は連隊本部の書記をしていました。
軍隊に1本きりない電話に、師団司令部から電話が入って、東京に火災がおきたっていうんですよ。夜の11時ごろでしょうか、週番司令のところへかかってきて、「なるべく最大限の兵力を用意して東京の救援の準備をしてくれ」。すぐに連隊長のところへ伝令が飛ぶ。(中略)
私は石神井に2週間いて引き上げてきたんですが、そうしたら朝鮮人は、朝鮮人ばかりじゃないですから、日本人も混じっていた。大震災にあった人たちを習志野の東廠舎(しょうしゃ)、西廠舎へ連れてきて、みんな収容したんです。
ところが朝鮮人がどれで日本人がどれかわからないでしょう。言葉はみんな日本語だしねぇ。顔つきがこう朝鮮人みたいな顔をしてるのはみんな、日本人でもやられちゃったんじゃないですか。救護する目的で連れてきたんですけれども、朝鮮人が暴動起こしそうだちゅんで、朝鮮人をひっぱり出せということで、ひっぱってきたんですねぇ。私の連隊の中でも16人営倉に入れた。それが4個連隊あるんですから。
おかしいようなのは、みんな連隊にひっぱり出してきては、調査したんです。ねえ、軍隊の中で…そしておかしい様なのを…ほら、よくいうでしょう…。切っちゃったんです。日本人か朝鮮人かわからないのもいたわけですね。切ったところは、大久保の公民館の裏の墓地でした。そこへひっぱっていってそこで切ったんです…。
私は切りません。…30人ぐらいいたでしょうね。ところが、私の連隊ばかりじゃない。他の連隊もみんなやる。いきなりではなく、ある程度調べてね。何しとったんだか、どこにいたんだかを。
われわれ、軍隊におりながら、そんなのが営倉から引っぱりだされると、切られるんだなあと、かわいそうになりましたよ。私は、2回か…切られるところまで行ってみましたけどね。後はもういやになったから行かなかった。一晩に3人ぐらいおこなったんじゃないですか。
営倉の中にいる人たちは、呼ばれたきり、帰って来ない、変だなくらいに思っていたんじゃないですか。
ちょうど、たまたまそのころに、小松川(江戸川区)というあそこの橋で朝鮮人が暴動を起こしたっていう連絡があったんですねえ。それでこっちの収容所へ入れてあるのもみんな調査はじめたわけです。調査をして、おかしいのをひっぱり出した。
小松川なんかあれですよ。向こうから朝鮮と思われるようなのをまとめて追い出し、こっちから機関銃ならべて撃ったんですよ。橋の上で、もうみんな、それが川の中へバタバタ落っこちちゃったわけですねぇ。
(「いわれなく殺された人びと」(青木書店)より)
この會澤証言によれば、八千代市内で「払い下げ」られて殺害された16名の他に、各騎兵連隊が収容所から連隊の営倉に移し、大久保の村墓地で殺害した者が30人ぐらいあった、ということになりそうです。「石神井に2週間いて引き上げてきた」というのですから、9月も中旬以降の話なのでしょうか。なお、會澤氏は「大久保の公民館の裏」と言っていますが、当時もちろん公民館はなく、大久保村の墓地になっていました。太平洋戦争の後、墓地は改葬されて大久保・薬師寺境内の納骨堂に移され、その跡地に大久保公民館・市民会館や図書館が作られたのです。
また、「関東大震災ト救護警戒活動」という憲兵隊の資料には、「習志野鮮人収容所警戒に就ては、習志野憲兵分隊を以て之に充当せしむるの外、鮮語に通暁せる上等兵3名を私服にて収容所内に派遣し、鮮人の動静知悉に努めしめ、有力な資料を得たり。」とあるそうです。つまり、朝鮮語がわかる憲兵3名を私服で収容所内に紛れ込ませ、會澤証言のいう「おかしいようなもの」をあぶり出していたということがわかっています。
以上の証言の裏付けになるのか、それとも別の事件を物語るものなのかはわかりませんが、当時、政治学者の吉野作造(民本主義の提唱者)は、朝鮮人の被害状況につき「朝鮮罹災同胞慰問班」から聴き取った大正12年10月末日までの数字として、「千葉県習志野、軍営倉内、虐殺12名」と記録しています。(會澤証言の「30名ぐらい」とは数字が食い違っています)
政府の報告書にも軍隊による朝鮮人や日本人の殺害が記録されている
また、内閣府中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」の第3期報告書「1923 関東大震災【第2編】」(平成20年3月)
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html
は、「『兵器使用一覧表』には、軍隊による内地人の殺害として、5日に習志野廠舎収容避難民のうち反抗的態度をとった8名を憲兵分隊に護送中、暴行したため全員を刺殺した件…が記載されている。」と述べています。原資料である「兵器使用一覧表」は東京都公文書館所蔵「関東戒厳司令部詳報」の中にある「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル一覧表」だそうです。
また、司法省「震災後に於ける刑事事犯及び之に関連する事項調査書」には「軍隊の行為に就て」として、9月5日午後10時頃、大久保村南端、軽便鉄道踏切付近で邦人8名が騎兵第14連隊によって刺殺された旨が記載されています(「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」(みすず書房・1963年))。
「非常事態下のこと」として責任はあいまいにされた
殺害などを行った各地の自警団、民間人に対する捜査や裁判は、非常事態下でやむを得なかったものとして不徹底に終りました。また、軍隊による虐殺もその後、責任が問われることはありませんでした。
習志野に収容された朝鮮人は約3千2百人、中国人は約6百人、計約3千8百人で、その中には誤認された日本人もいたであろうという数字をよく見かけるのですが、3年前まで収容されていたドイツ兵は約1千人でしたから、その施設へ本当に4倍の人数を詰め込んだのかどうかは検討する余地がありそうです。
習志野市役所刊行の「習志野市史」には、こう書いてあります
警察や軍隊は虐殺を行う一方で、無差別的な襲撃から朝鮮人・中国人を守るために保護し、4000人近くを習志野の捕虜収容所に送り込んだ。しかし、習志野も安全を保障するところではなかった。収容所の中では憲兵が彼らの言動や思想を調査し、不審な者は営倉に入れられ、300人ほどが行方不明になったといわれる。(習志野市史第1巻より)
収容所からの解放が始まったのは9月下旬だったようです。解放された数は約3千5百人とされ、その差300人ほどが行方不明(上記の「習志野市史」の記述)で、殺害されたのではないかと疑う説もあるようですが、これはわかりません。鉄条網を破って逃走されたり、日本人とわかって解放したような数値は、記録しなかったことも考えられるからです(軍としても体裁が悪かったでしょうから)。
史実をむやみに隠すことも、史実をやたらに誇張してしまうことも、歴史の真実を見えなくしてしまい、間違いだと言うべきでしょう。
陸軍ニ於テ収容シアル朝鮮人ノ情況
なお、「陸軍ニ於テ収容シアル朝鮮人ノ情況」という10月12日付の文書(海軍省公文備考、アジア歴史資料センター・レファレンスコードC08050973500)では、「習志野廠舎ノ状況」として、「訪問者ノ感想」という項目を記載しており、鮮人李相恊(在鮮新聞記者)、英人宣教師、朴春琴(日鮮起業株式会社取締役)、崔承萬(基督青年会幹事)及其他多数ノ慰問者アリタルニ、収容者ガ邦人罹災者以上ノ優遇ヲ受ケツツアルヲ見テ感激ノ声ヲ漏スモノ多ク、訪問者ニ対シテハ一般ニ好感ヲ与ヘタルモノト認ム、と書かれています。訪問の日時の記載はなく、これを軍のプロパガンダと見るかどうかはともかくとして、習志野にこのような訪問者があったことは事実なのでしょう。

ともあれ、習志野騎兵連隊の歴史の中で関東大震災は大きな暗部になったまま、3年後には100年を迎えようとしています。
(以上、2020年8月のブログ記事より)
虐殺現場は大久保公民館(現「プラッツ習志野」)の裏でした
(谷岡議員のブログより)
https://bootsman.exblog.jp/29727342/
虐殺現場の一つとして証言が残っているのが、大久保公民館の裏です。
公民館が建設されるまで、高台側に墓地があり、その南側は沼地でした。墓地と沼の間にあった火葬場で殺されたという証言もあります。現在は、新しい公民館・図書館の建設工事が進められています。
「関東大震災フィールドワーク」の方が、こんな投稿をされています
「ドイツ人俘虜収容所オーケストラの碑」は作られたものの、その後習志野市は何の記念イベントも行わず、市民から、俘虜収容所の歴史が忘れ去られようとしています。板東や似島など、ドイツ人俘虜収容所があった他県では記念館をつくり、後世に伝えているのに…。
もっとひどいのは、ここが関東大震災時に「朝鮮人の収容所」として使われた事実、現在の「プラッツ習志野」敷地内で虐殺が行われた、という「黒歴史」も習志野市は隠そうとしていることです。
殺害現場に追悼碑や説明板などを設置し、二度と同じことが起きないよう後世に伝えるべきではないでしょうか?
今年も「9月1日」が近づき、船橋では6日、八千代では13日に慰霊祭が行われます。
(Deepランドより)
関東大震災朝鮮人虐殺の歴史も、ドイツ人俘虜収容所の歴史も抹殺し、風化させ、「なかったことにしようとする」習志野市の姿勢、問題ですね。
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