その日、僕の父親は、広島から列車で30分の山口県岩国にいた。


電電公社に入りたての16歳だ。もう2年ほど早く生まれていたなら、軍隊に召集されていた年齢だ。

それでも、学徒動員の対象となり、呉の海軍工廠であの悪名高い人間魚雷の製図をしていたこともあった。


その日、キノコ雲を見て、勤め先の電話局に駆けつけると、広島局と連絡が取れないと大騒ぎになっていた。

若い下っ端の父親は、広島の局の様子を見に行くことになった。

一晩泊まれるだけの準備で、30キロの道のりを自転車で移動することになった。


広島は、川の町だ。市内を流れる川は、700を越える。

夕方には、市街と郊外を隔てる川にかかる橋のたもとに到着した。

父親は、愕然とした。

街全体が燃えていたのだ。

その巨大な炎と灼熱は、半日経ったにも関わらず、いまだ人間の進入を許さなかった。


市内に入れたのは、翌日になってからだ。黒い雨が降って少しだけ街が冷やされた。


そこで見たものは、この世の地獄だ。

人類史上、一瞬でこれほど人間が死んだことは、後にも先にもあるまい。

あちこちに転がる死体。生きて歩いているものは、焼けた皮膚が垂れ下がり、指の爪で止まりまるで幽霊のようだったという。

自転車は使えない。なぜなら、灼熱を逃れて川にたどりつこうとした人の死体に道が埋め尽くされていたから。

仕方なく、自転車を担いで、死体をまたぎながら進む。

すると、死体と思ってまたぐと、不意に足を掴まれることがある。そして水をくれと云うのだ。


電話局があったらしい場所につくと、そこには少しの壁が残っているだけだった。

運よく逃れた広島の電話局の人間と会えたが、彼は父親の自転車を取り上げた。


16歳の少年には、なにも出来なかった。そこに留まって地獄をただ見つめるだけだ。


川には、灼熱を逃れて飛び込んだ無数の死体が浮かんでいた。潮の満ち干に応じて、一度海に流された死体がまた川を上ったり、また海に流されたりする。


暑い夏の日。死体はすぐに腐る。

身元の確認など出来るはずも無く、山積みにされた死体をまとめて焼いた。

市内のあちこちで同じ様に死体を焼いた。

夜になるとそこには、あちこちでぼうっと青白い炎が立ち上った。それはまさに巨大な、ひと魂だ。

人の骨に含まれたリンが燃える色だ。


結局、9日まで、まる3日間広島に居た。


そして父親は、被爆者認定された。そして今年も靖国神社に行っているはずだ。


そこには、自分の製図した人間魚雷の回天が展示されている。