嫁が亡くなって以来というもの、

自分自身に言い聞かせるように、出来るだけ刹那的に生活してきた。

出来るだけ、将来を語らず、今を楽しむかのように。


その日は、突然やってきた。

今度は僕が死に掛けたのだ。


ご存知の通り、病院の消灯時間は驚くほど早い。


夜9時の消灯時間から朝まで身じろぎもせずに考えた。

いや、正確には、穴という穴にチューブが差し込まれ、体の自由が利かない状態でそうせざるを得なかったのだ。


いやがおうでも、死んだ彼女を思い出す。


どうしてこんなことになったのだろう。

少しだけ忘れかけていた彼女への想いが、溢れ返す。

死に顔や、声や、元気だったころの思い出が、繰り返し繰り返し。


幸せの記憶がほんの少し痛みを和らげるが、それはすぐにもっと鮮明な彼女の最後の記憶に打ち消される。

ベットに横になりながら、涙が止め処なく流れる。手でぬぐうことも出来ない。

看護士さんに感ずかれないように声を押し殺すと余計に涙の量が増えるのはなぜだろう。


あのまま逝ってしまっても良かったのにと何度も思った。




救急車を呼んでから、10分ぐらいで救急隊が来たと思っていたのだが、本当は30分位たっていたのだそうだ。


救急車を呼ぶことに決めて、まずアリスをバスルームに押し込んだ。

救急隊が入室して来たときに驚いて外に出てしまわないようにするためだ。

何かあってもアリスは誰かが見てくれる自信はあった。


次に玄関の鍵をはずした。もうすでに、救急隊が来るまで意識を保つ自信が無かったのだ。

最後の難関は、マンション全体入り口の玄関をどう開けるかだ。


財布入りのポーチを持って、開錠パネルのそばで到着をまった。この辺から記憶が曖昧。

(飛びそうな意識の中で、もう駄目かなとも思った。)

チャイムが鳴って、何とか解除キーを押した。


玄関の外で救急隊員が何か声を掛けているのを最後に、意識を失った。彼らが玄関を開けたのは知らない。


後で聞けば、搬送中に意識を失い。見る見る状態が悪化し、病院に着いた頃には、呼吸停止に陥ったのだそうだ。


それから4日間、人工心肺につながれることになる。


よく言うように、走馬灯のように思い出が走ったとか、三途の川も見たと言うこともない。

苦しかったのかさえ覚えていない。


もし、あのまま逝っていたなら、僕の死は苦痛の無い突然の終わりだった。




ふと、喉からチューブが抜かれる感覚があった。

目の前に両親を含め、見知らぬ病院の関係者が7、8人こちらの様子を伺っているのが見えた。


ぼんやりした頭で、ああ生き延びたのだと理解した。

(まだ哲学的な思考回路は回復していない。)


口から太いチューブをはずした僕の顔をみて、一人の看護士さんが言った。

「まあ、随分若い47歳だこと。」

どう反応してよいか解らず、目で軽く会釈をした。


そこで、事態を論理的に、完全に把握した。

生き延びた上、若いといわれ、戸惑う自分に気がついたのだ。

生き延びたことに特別感慨の無い自分に気がついた。


朦朧とした意識の中で、死んでも良いかなと思ったことを思い出した。




年老いた両親に言った。

「あれで死ねてたら楽だったよ。」

それは、死の苦痛を思っての台詞だったのだが、別の意味で取られやしないか少し言って後悔した。

思いのほか両親は淡々として言った。

「良いけど順番は守ってもらいたいねえ。」


考えてみれば、孫を含め、もうすでに何人も追い越している。


僕が、順番を追い越すことはもうないと思う。根拠はないが。

そうなら今回逝ってると思う。


住んでる家の側に、最先端のER専門の病院があったのも幸いした。普通の病院ではどうなってたかわからない。なんと日本の1番と2番といわれている救急病院が1キロ圏内にあるのだそうだ。

それから、実は、20年間ものあいだ、健康診断したことがなかった。今回の件で、思いがけず喘息アレルギー以外、まったくの健康体であることが判明してしまった。医者に太鼓判まで押されてしまった。



集中治療室を出て、準集中治療室に移された。

顔なじみになった看護士が、残念そうな顔をしてこういった。

「あたし達のところで口の利ける患者さんて滅多にいないのよ。」

そうかこの人たちは、これが日常なのだと気がついた。

僕が幸運なことを暗に示唆した。


まさか、逝っても良かったのになどと思っていたとは露にも思うまい。

ばちあたりにも。



酸素を鼻から入れ、点滴を打っていた時は、手の平の血管の色が異常に黒く感じた。

なんだか死人の手のようだなと思って毎日眺めた。

口から食事が取れるようになり、しばらくたつと血色が見る見る良くなった。


すると夜も眠れるようになった。

体と心は表裏一体だ。


毎夜、彼女を思い泣くことも無くなった。

今回の事件は、想いだすよう神が用意したなんかのイベントと思う。

人間、生存する方向に向かうように出来ているとさらに思い知らされた。



無理を言って家に帰ることにした。

アリスは少しだけわがままになっていたが、何も変わっていない。

唯一変わったのは、僕自身だと思う。


生存することに哲学的な意味を探すのもやめようと思う。


ただ、必要ならば生きながらえよう。


神のみぞ知る。



2008/4/25