先日も書きましたが、政治は人ですね!
武田信玄の治水工事!
武田信玄の総合的治水術
扇状地における流水コントロールシステム

かつて甲斐の国には、御幸祭が3つあったといわれている。おみゆきさんは「東御幸」。
上は、一之宮浅間(あさま)神社境内での様子。「ソッコーダイッと」という掛け声で練り歩く。現在では境内と近隣を練り歩いた後、神輿はトラックで竜王の信玄堤まで運ばれ、二之宮美和神社、三之宮玉諸神社の神輿と合流し、三社神社の鳥居をくぐる。
水を制するものは、国を制す。 戦国時代の勇武田信玄は、暴れ川を治め、新田開発することで富国を目指しました。 その仕組みは、実に雄大な規模です。 人心を掌握し、川除普請を実行した総合力に、治水の叡智を学びます。
祭りをメンテナンスに利用
武田信玄は、信玄堤を含むトータルな仕組みで、流水を統制しました。私はそれを「流水コントロールシステム」と呼んでいるのですが、このシステムは河川とのつき合い方を熟知した、かなりサスティナブルなものになっています。
これらの施設も卓越していますが、メンテナンスにおいても大変素晴らしいシステムが考え出されています。それが、毎年4月15日に行なわれる、洪水期前の水防のお祭りである御幸祭、通称「おみゆきさん」です。
信玄堤の完成より700年前まで遡る平安時代、西暦825年(天長2)にスタートしています。甲斐国司である文屋秋津(ふんやのあきつ)という人が、釜無川の洪水の報告を朝廷にしたところ、朝廷から勅使が来た。そして甲府盆地の中にある一宮、二宮、三宮という3つの神社で共同して、信玄堤のある場所に神社をつくりなさい、毎年お祭りをしなさい、と指示しました。
筑後川の治水事業の歴史(明治以前の主な治水事業)
http://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/archives/kozuichisui/chikugochisui/index1.html
筑後川の治水事業の歴史
明治以前の主な治水事業
筑後川の最初の治水事業は、江戸期最初の筑後柳川城主となった「田中吉政」が行ったものです。当時筑後川は長門石方面に大きく蛇行しており、洪水被害の原因の一つになっていました。田中吉政は現在の瀬の下を掘削して蛇行部をショートカットする工事を行いました。
次に、鍋島藩の「成富茂安」による「千栗堤防」の築造、また同時期の有馬藩による「安武堤防」の築造等が挙げられます。筑後川の下流右岸の千栗堤防は、寛永年間(1624年から1644年)に12年の歳月を要して、千栗から坂口までの約12キロメートル間に天端幅2間(約3.6メートル)で築造されました。
一方、左岸の安武堤防は、千栗堤防とほぼ同程度の規模で築造されましたが、対岸の千栗堤防に強度的に対抗できなかったため、有馬藩は成富兵庫茂安に匹敵する土木技術者「丹羽頼母重次」を招き、河岸防護を目的とした荒籠を築造しました。
当時の堤防は現在のような連続堤ではなく、霞堤(かすみてい)といわれる不連続堤であり、農地への一時的な氾濫を許容する構造になってました。
また、控提(ひかえてい)を作って下流や市街地に氾濫が拡大しないような工夫をしていました。