こんにちは、かっぱです。

 

祝日の朝寝坊・・・サイコーですね(^▽^)

 

ふと、今書きたいことを

書きたくなりました。

 

カンヌ映画祭やアカデミー賞で

一気に注目が集まっている映画

「ドライブ・マイ・カー」。

 

西島秀俊もわりと好きだし、

原作の村上春樹も嫌いじゃないし、

観に行ってみよう!!

と、映画鑑賞してきました。

 

 

「人は、自分が見たいようにものを見る」

と、よく言うけれど、

私は、特にそれが顕著な人間で。

 

この作品のメッセージとか、

ちゃんと受け取れている自信は

まったくありません。

 

ただ「今の自分」に必要なものは

確かに受け取れる。

 

文学や映画に触れると、

その時の自分の内面が引っ張り出される、

共鳴して返ってくる、と感じます。

 

なので、今回は、

まったく一般的な感想や批評ではなくて

「今の私に響いたこと」を

気ままに書いてみたいと思います。

 

「勘に従って、観に行ってよかった!

 今の私にピッタリ!!」

と思える映画でした。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思いっきりネタバレしますので、

ご注意くださいませ~~~

 

「ドライブ・マイ・カー」

↓ 画像はお借りしました。

 

 

原作が村上春樹、

ということで、

実はひそかに期待してたのですが😊

やっぱり、映画冒頭から、

セクシャルなシーンで、

作品の世界に引き込まれました。

 

村上春樹についての批評など

全然読んだことがないのですが、

彼の作品では、

セックスが大きなキーになっていることが

多いと感じます。

 

他者と深い交流をはかる時や、

主人公が内面に深く潜る時、

宇宙とつながるような時・・・・

なにか、そういう「鍵」として

セックスが役割を果たしてることが多いような?

 

そういう描かれ方が

私には、心地よくて好ましい。

 

セックスが即物的ではなくて

無意識や潜在意識とつながる

深い神秘として、取り扱われる。

 

冒頭のシーンは、

主人公の舞台演出家(西島秀俊)と

その妻である、脚本家(霧島れいか)

のセックスの場面。

 

妻である「音(おと)」は、

セックスの直後に、物語を紡ぎだす。

ベッドの上で、夫に向かって

浮かんでくるストーリーを語るのです。

夫の家福(かふく=苗字です)が

それに応えたり、質問したり、

ふたりの対話の中で、

音の脚本はできあがっていく・・・

 

それから、

自ら役者でもある家福は、

車を運転しながら、

セリフを覚える習慣があります。

その時、聞くのは、

音が吹きこんでくれたセリフ入りのテープ。

相手役のセリフを音が朗読し、

家福が、それに自分のセリフで応える。

家福の車の中では、

いつも、音の温かな声が流れていて

ふたりは、車の中でも

対話をしているようなのです。

 

そんな風に、ふたりは、

深く深く結びついている。

互いが互いを必要として。

ふたりだけが共有している

スピリチュアルで創造的な世界。

 

ところが、音は

実は、他の男性とも浮気しています。

家福は、その現場を陰から目撃してしまう。

けれども、何も見なかったふりをして去る。

 

そんな後にも

音は、家福に言います。

「あなたで、よかった。

 私は本当にあなたといられて幸せ。」

(セリフはうろ覚えです💦)

 

複雑な想いを抱く家福ですが、

その直後に、音は急逝してしまう。

家福が、帰宅すると倒れていて。

くも膜下出血でした。

 

・・・・という、ここまでが

ストーリーの前段。

 

突然、妻を失った家福が、

妻は本当は何を思っていたのか?

を、追い求め、喪失感を癒していく

魂の旅の物語・・・・

というのが、この映画の大すじだと思います。

 

人が他者とわかりあうとは?

いや、丸ごとわかることなどありえない。

それでも、受け入れ、愛するとは?

 

そんなテーマが描き出されていると

感じました。

 

 

「この映画、今の私にピッタリ!」

と、思ったのは、

音の「裏切り」です。

 

人は、どうして、自分だけを愛してほしい、

と思うのか?

 

じゃあ、「愛してる」を

何ではかるのか?

 

その象徴として、

セックスを目印にする価値観が

一般的なのはなぜか?

 

つまり、

自分だけを愛してくれる=自分だけとセックスする

この価値観を持っている人は多くて、

これが破られると、

人はすごく傷つく。

 

少なくとも私は

傷つかないという自信がまったくない。

 

でも・・・

セックスなんて、ある意味誰とでもできる、

とも言える。

愛なんて、こもってなくても。

 

それでは

「愛し合っている」という感覚は

どうやって確かめるのだろう?

 

最近の私は、

こんなことをグルグルと考えていたので

本当に、この映画は、ドンピシャでした。

 

この作品は、そこに

深く切り込んでいきます。

 

家福は、音の浮気に目をつぶりました。

それには、

「自分たちの関係は、

 それでも特別だ」

という想いがあったのだと私は思います。

妻が他の男とセックスしても

それは遊びであり、

自分とのそれとは、別のレベルのものだろう、と。

 

ところが、物語の中盤で

家福は、目をつぶっていられないくらい

傷つきます。

 

音が家福とのセックスの時に

紡ぎだしたストーリー。

それは、彼女の死によって、

途中で終わってしまったのですが

「僕は、その続きを知っていますよ」

と、若い俳優(岡田将生)に言われるのです。

彼は、とうとうと、音の物語の続きを語ります。

 

家福と音だけに共有されているはずだった、

神聖でクリエイティブなセックス。

ところが、音は、それを

他の男性とも共有していた。

 

こんなショックがあるでしょうか。

 

私と同じく、

多くの人が思っているであろう、

「愛する人にとって自分だけが特別でありたい」

という想い、

それが、とても象徴的に

ふみにじられるのです。

 

結局、妻は自分を愛していたのだろうか?

妻にとって自分は、なんだったのだろうか?

 

もう妻にきくことができない家福は、

永遠に解けない謎を抱えることになります。

 

「それでいいんじゃないですか? 

 そういう部分もまるごと、

 受け入れるってことはできないですか?」

(セリフはまたもや、うろ覚え💦)

 

映画の終盤、

家福の車の専属ドライバーとなる

若い女性が、そう言います。

 

うん。

そうだよな。

 

生きるって、そういうことだよな。

 

ここで私は、

グルグル考えていたことの

答えを見せてもらった気がしました。

 

他人の心の中なんて

1ミリものぞくことはできない。

 

愛というものも、形がない。

 

もし、愛する人に

他にも愛する人がいたとしても・・・・

 

「あなたで、よかった。」

と、言葉にして言ってくれたのならば

ただ、それをそのまま、受け取る。

 

相手との満たされた

密な時間があったなら

それもそのまま、受け取る。

相手が同じ体験を、他の人とも

共有してたかどうか、などは気にせずに。

 

どれだけ愛してる、とか

自分が一番か、とか

それは、計る術がなくて。

 

そういう複雑で、変容し続けるものが

人の心。

だから、

言ってくれたこと、

やってくれたこと、

それらを意味付けせずに、

ただ、受け取るしかないんだなぁ。

 

全然うまく言葉にできないのだけれど

この映画では、作品をとおして、

その在り方を体感させてくれました。

 

 

今の私に響いたのは、こんなことでした。

上手に書けなくて、もどかしいのですが。

 

 

ここからは、おまけ。

 

私は村上春樹は、大ファン!

というほどではないのですが、

彼が描く、

女性との向き合い方が、結構好きです。

 

彼の作品では

女性が、人生に影響を与える

大きな存在として、描かれる。

 

対比として、渡辺淳一が浮かびます。

渡辺淳一の作品にも

女性が大きな存在として登場し、

性描写が描かれますが・・・

 

どーも、渡辺作品の場合は

女性はあくまでも「愛でるもの」

に過ぎないように感じるのです。

 

蝶よ、花よ、と、愛でてやまないのは

すごく伝わってくるんだけど

 

あくまでも、男性にとっての

「エンタメ」としての女性に過ぎない、

と私は感じて、辟易します。

 

村上春樹は、少なくとも

そうではない。

 

深くわかり合いたい人間、存在、

として描かれているように感じるので

私は、好きですね。

 

 

今日は、私の、そんな

映画感想をつらつらと😊

 

お読みくださって、ありがとうございました。