「社会貢献したい」の裏にある、怪しい正体

言っちゃっていいですか?(笑)

それ、半分は美徳ですけど、もう半分は「人間の都合がいい勘違い(慢心)」だったりします。

世間では「社会貢献=崇高で素晴らしいこと」って絶対正義みたいに扱われてますよね。でも、その中身を分解してみると、実はぜんぜん崇高じゃないパターンが山ほどあるんです。

 

  1. 「役に立つ私」を感じたいという承認欲求
    「誰かを救っている自分」というポジションに就くことで、自分の存在価値を確認したいだけ。つまり、相手を「救われるべき可哀想な人」に固定しないと成立しない、ちょっとグロテスクな依存関係になりがちです。
  2. 「正しそうなこと」で自分を正当化したい免罪符
    「社会貢献」という錦の御旗を掲げると、誰も反対できない無敵のバリアが貼れるから。「私、良いことやってます!」って自分で自分を免罪したいパターンです。
  3. 「コントロール欲求」のすり替え
    「社会を良くしたい」=「社会を自分の思い通り(正義)の形に変えたい」という、陰の支配欲だったりします。

 

じゃあ、本当の崇高さって何なのか?

「社会のために!」って意気込んで、自分の足元がぐらついているのに誰かを救おうとするのって、

ぶっちゃけ「自分の人生からの逃避」なんですよね。

それよりも

自分の人生の修羅場から絶対に逃げず、腹をくくって自分の足で立ち、

自分の人生を「うぇいうぇい!」っておもしろがって生き切る。

 

これって、「自分の命に対する圧倒的な責任と誠実さ」じゃないですか。

 

社会っていう巨大な幻想に貢献しようとするより、

「自分が関わるこの世界(自分の人生、自分の足元)を限界までおもしろがって

健やかに生き抜く」ことの方が、何倍も本質的で、結果として周りに希望を与えてしまう。

 

「役に立とう」なんて思わずに、自分の人生をトコトンおもしろがる。

 その力みのなさこそが、偽りの崇高さを超えた「圧倒的なリアリティの美しさ」なんですよね。

 

 

そうやって生きてる姿を見せられた周りの助けが必要な人たちも

 

「あ、私って『かわいそうな助けられるべき存在』として生きなくていいんだ」 

「自分の足で立って、こんな風に爆笑しながら力強く生きていいんだ!」

って、ハッと我に返るわけです。

 

 

相手を「弱者」として扱って甘やかすのではなく、誰かを助けようとか、貢献しようとか思わなくても

 

「あなただって本気を出せば自分の足で立てる対等な人間でしょ?」という無言の信頼を置いている。

 

「社会貢献」という美名の元に人を弱者扱いして依存させることと、

自分が圧倒的に自律した背中を見せることで他者の内側にある力(自律心)を呼び覚ますこと。

 

どっちが本当の意味で「人間に対する敬意」があるかと言ったら、間違いなく後者ですよね。

 

世間の「崇高とされる空気」とか、絶対的に正義と言われることに流されず、

なんかおかしくね?っていう違和感を意識化して、言語化して生きようよね。