「がんばろう」 | Sleepy Scholar's Diary

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冬眠が好きな傾向は一生続く模様だが、一応、起きて
いる時には世界にも色々反応を示していきたいもの。

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一週間後の統一地方選挙のマニフェストを見るために
いくつかの政党のホームページに行ってみたが、
震災のことで皆さん忙しいので、地方選に関しての
マニフェストが見つからなかったり、イマイチだったり。
全国規模のサイトでは仕方がないかと思うが、地方は
地方でサイトを立ち上げれば良いのに、と感じる。

ところで、いくつかの政党のトップページにある
「がんばろう日本」* という言葉が、私にはどうも
気になって仕方がない。オリンピックやサッカーの
ワールドカップではあるまいに・・・。

* つづり方は、政党によって違う

震災が起きてすぐにこの言葉が目や耳に入るように
なったが、被災地にある人々は、この言葉をどう
受け止めておられるのだろうか。もちろん、日本中、
世界中の人が一緒に頑張ってくれているのだと知る
ことで自然に元気になられる方もいるだろうが、
多くの場合、違うような気がする。

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二日前に見たテレビで、ある自治体の役所職員の方々が
一日ひとつのおにぎり、夜も数時間だけの睡眠で連日の
ように遺体の埋葬などに動き回っておられる映像を
見た。役所に避難してきている人々が見ている中で、
自分たちだけ休息を取るのは無理だとのこと。

もちろん、彼らが公務員として感じている義務感は
重々理解できるのだが、私はおにぎり一つでそこまで
「働かされて」いる彼らの姿に驚愕してしまった。

交通網がストップしているので、外からの援助を
得るには時間がかかるのは当たり前かもしれないが、
過労死につながりかねない状態でそのように働く
人々が、被災地にはどれほどいることか。日本全体が
「がんばる」というのであれば、それぞれの地方自治体
から被災地に交代で「人」を「物資」と一緒に送りこむ
ぐらいのことをしても良いのではないだろうか。

被災地の役所職員が、一日にひとつしかおにぎりを
食べられないというのであれば、一般の市民も総じて
同じ状況にあるということだろう。震災が起きて
数日後というのなら分かるが、三週間も経つのに
食べ物がないというのは、日本の生活水準から考えると
「ありえない」ことである。だが、その「ありえない」
ことが実際に起きており、マスコミを介して報道されない
場所では、より深刻な食糧危機も起きているのだろう。

生きるためにまずは必要な食料と水。これが不足、
というより欠乏している場所で、「がんばろう」と
言われてもピンと来ないどころか、「食べ物と水を
まずは送って!」と叫びたくなるのではないか。

テレビで「がんばろう日本」と笑顔で語りかける
人々のほうは、しっかりと普通の食事をとっている
のだから、そんな人に「がんばろう」と言って
欲しくはないだろう。少なくとも、私が被災者であれば、
食料を積んだトラックが今はどの辺りまで近づいて
きているのか、といった具体的希望のもてる映像を
見るほうを望むだろう。

或いは、放射能に汚染された地域の人々にとっては、
的確な(正直な)避難指示のほうが今の時点では
「がんばろう」コールよりもずっと現実的で、
ありがたみのあるものだろう。

放射能にさらされてしまったのではないかという
恐怖の中、逃げる場所を持たずにそこにいなくては
ならない人々にとって、遠くのほうから「がんばろう
日本」と謳うスローガンは白々しく聞こえるに違いない。
頑張る、頑張らないにかかわらず、放射能に汚染された
日本と、そうでない日本があるという事実は、すでに
存在しているのであり、「日本」とひとくくりに
語ってしまうのには無理がある。

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昔から天邪鬼の私は、学校の先生に「明日のテスト、
頑張りましょう」と言われると、「テストで良い点を
とるのは、私であって先生ではないのに」と考えて
いた。そのため、自分が教える立場になった今でも、
この言葉はあまり積極的には使用しない。学生たちに
頑張って欲しいという気持ちはあるが、「頑張る」と
いう言葉そのものに、何か、強制的な力が加えられて
いるようなニュアンスを感じとってしまうのである。

教師が生徒に、テストで良い点数をとって欲しいと
願う時には、単純に「隅々までぬかりなく勉強して
満点をとれるようにして下さい」と言うほうが正しい
と私は思う。

教育の場とは違う、今回の「がんばろう日本」と
いうスローガン。だが、これも、被災地の今ある現状を
すっかり飛び越えてしまった不躾な表現だと私は思う。

もちろん、私も被災地とは違う快適な生活を送って
いるのであり、このような勝手な記事をブログに
載せている身であるので、今苦しみにある被災地の
人々から見れば不躾な存在であることは免れ得ない。

義援金には参加したが、ボランティアとして東北で
身を粉にして働いているのでもなく、自分の生活を
保っていくだけで精一杯の偽善者だと言われても
反論はしない。

しかし、被災者以外の日本住民全体が、震災からの
復興を「がんばろう日本」の旗印の下で
願うということに、偽善を感じざるをえないのも
事実である。被災した方にそうでない我々がエールを
送るという意味で、「がんばって、被災地」というので
あればまた、意味合いが違うかもしれない。(それでも
被災者から見れば不用意な発言そのものだろうが。)

不景気にあった日本が未曾有の災害に遭い、更なる
低迷期にさしかかろうとしている、だからこそ、
日本全体で取り組まなければ、という気持ちがある
のかもしれないが、毎日の食に困っている人々に
とって、過去から続いている不景気を今の苦境に結び
つけては欲しくないだろう。全く違う次元の問題である。

「日本全体が応援している」と聞けば、律儀な
日本人は大抵「ありがとう」と答えなくてはいけない
と感じる。被災者も同様だろう。しかし、震災後、
普通の日本人並みの生活をしていない状態にある人々と、
「がんばろう日本」のバナーをネット上に載せた側に
ある人々に間には、今は大きな差があるのが事実。

日本全体をひとくくりにして「がんばろう」などと
言うことは、弱者の視点を完全に無視したご都合
主義的発想だと言える。

このようなことを言うと、被災地のことを真剣に
考えていないのではないかと指摘されそうだが、
そうではない。個人レベルでは、被災地に出向く
ことでもしない限り、支援できる範囲が限られてしまう。
だが、かといって、「がんばろう日本」のスローガンに
乗せられることは嫌なのである。

被災地の復興(というより、その前に被災者の
衣食住の確保)のために、日本全体(といっても直接
大きな力を持ちえるのは政府)としてできることは
まず、そこに物的・人的エネルギーを投入すること。
「がんばろう」という浮ついた言葉より、もっと地味な
作業によってこそ、我々の普通の生活は成り立っている。

「がんばろう日本」と被災地の外側で気休めのように
唱えることは簡単だが、気休め故、実際に被災した
人々の生活にはほとんど効力をもたない。上滑りした
支援を試みるよりも、もっと地に足のついた現実的な
ところに目をむけること必要だと考える。