確か先週の大河ドラマ『花燃ゆ』の中で、「松本村へ」という台詞がありましたがこれは松下村塾が松本村というところにあったからそう呼ばれていたんだと思います。
松下村塾は武士や町民など別け隔てなく、誰でも通える私塾でした。それ故に、百姓の長男だった伊藤俊輔(のちの伊藤博文)などがここに通っていたというのはいうまでもなく。
→ブログ記事『松下村塾ってどんなとこ? 』
この松下村塾と対照的にに、長州藩には明倫館という藩校がありました。
藩校、ということは藩が直轄する藩士の子弟を教育する学問所です。その教育の質から『日本三大学府の一つ』と言われました。
※あとの2つは水戸藩の弘道館、岡山の閑谷学校
そもそも藩校というのは、先述の通り藩が自ら管轄する学問所であって、そこに通うのは藩士の子どもたちです。江戸時代では300校もあったそうです。
全国的な傾向としてはそこに通った年代は7~20歳ぐらいまで、その教育内容としては四書五経(※儒学の景初の中でも有名なもの)の素読と習字、時には蘭学(※ヨーロッパの学術・文化・技術の総称)や武芸もありました。
江戸幕府が儒学、しかも朱子学と陽明学が政治体制の中に取り込まれていたので、どうしても儒学を学ぶことが幕藩体制を維持するためには欠かせなかったのです(この儒学は生活の中にも定着していたのはいうまでもなく)
これらの学問があまりにも出来が悪かった場合、本人だけじゃなくてその家にも影響するぐらい厳しいものだったそうです。
さて。
萩の明倫館は1718(享保3)年に5代萩藩主・毛利吉元が毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸(堀内)に建てましたが、1849(嘉永2)年に14代藩主毛利敬親が藩政改革にともなって萩城三の丸(堀内)から萩城下に移転。新しくなった明倫館では従来の教育施設だけではなく、武芸鍛錬場や水練池、そして練兵場(3020坪)も作られていました。そして図書館としての機能が備わっていまいた。
おそらく、ここまで作るには城内ではスペースが足りなくて限界だったのかもしれません。
この明倫館では、吉田松陰や小田村伊之助(のちの楫取素彦)が教鞭をとっていました。その教えを受けたのが高杉晋作や桂小五郎(のちの木戸孝允)など後に幕末の歴史のなかに出てくる人物たちがいました(よく桂が松下村塾にかよっていた、という話をする人がいますがそれは明らかに間違いです)
しかし、この明倫館は1863年に将来を見越した形で山口を本拠地にしたため、そこにあった私塾を『山口明倫館』と改称したので、明倫館というものが2つある形になります。そして1876(慶応3)年に廃館という形になりました。
