→ブログ記事「顔は好みじゃないけど嫁にする」
その高杉は200石の長州藩士の長男として生まれました。漢学塾を経て、藩校明倫館に入りましたが、そこで出会った久坂玄瑞に誘われて、松下村塾に入門したのです。
松下村塾に入門した塾生は身分の低い家の出身者が多いと言われていますが、その中にいたというと極めて珍しいといえます。
1858年に藩命で江戸へ遊学し、昌平坂学問所(※幕府直轄の教育機関。)などで学びます。翌年、松下村塾の師である吉田松陰が安政の大獄で捉えられるとその世話をしました。しかし、その途中で帰郷し、そのさなかに松陰は刑死。
その後再び江戸にわたって、東北遊学。1862年には藩命で上海(清)へ留学。この時に隣国の実情を見て危機感を感じたそうです。
そりゃ、政治的に機能しないし。
外国人による事実上の支配だし(租借地ってそんなもんやん)
新興宗教もでてきちゃってるし(実際、太平天国の乱を見てきたという話だし)
おとなりでそれなら、自分の国なんてもっとヤバイじゃないかって。
高杉が上海に行っていた頃、長州藩は尊王攘夷派(※王を尊び、外敵を斥けようとする思想)という考え方が主流になっていました。その流れに乗って、彼も松下村塾で一緒だった久坂や同じ長州藩の桂小五郎らとやるようになったのです。その決定的な出来事といえば英国大使館焼き討ち事件でしたが、これらの振る舞いが過激すぎたために藩が警戒して高杉を江戸から長州へ召還。その際、彼は「10年暇をいただきます」といって藩に休暇届を出して坊主になったそうです。
この間に下関戦争が勃発、長州藩はたった4日で砲台占拠されたことで、250年近く平和ぼけしていた日本とはスケールが違うことを痛感させられます。
そして、高杉はアレを結成させます。
奇兵隊
当初は外国艦隊からの防備が主目的でしたが、そのベースにあったのが亡き師吉田松陰の考え方などがあったと言われています。その志願兵の出自も身分を一切問わないということだったのでなおさらその色が濃かったのかもしれません。
しかし、この奇兵隊も3ヶ月で総監だった高杉が罷免されてしまうのです。
京都で起きた八月十八日の政変で長州藩が追放されたのを機に1864年1月に脱藩しますが桂小五郎の説得で戻って投獄。その年の6月に出所しますが、翌月松下村塾で一緒だった久坂が禁門の変で敗北し、自害します。
その頃の長州はとてつもない環境に置かれます。なぜなら、
長州 vs 幕府・アメリカ・イギリス・フランス・オランダ
これって勝ち目が…((((;゚Д゚))))ガクガクブルブルと思った時に、講和交渉という流れに。
その時に起用されたのが高杉。そして通訳担当として伊藤俊輔(後の博文)
→ブログ記事「長州ファイブ」
諸外国勢は第二の中国(当時は清)みたいにしようとしたのですが…このトンデモナイ担当者に唖然。
烏帽子直垂(エボシヒタタレ)という伝統的な格好で乗り込んできたから。
そして、諸外国勢が彦島を租借地にしたいという要求に対してはこれ。
※大河ドラマ「花神」より(高杉=中村雅俊、伊藤俊輔=イッセー尾形)
なんと、古事記を言っちゃう。
つまり、「先祖代々の土地だから君らにやるわけにはいかない」ということを通訳不可能であることをわかっていながら、あえて狙ったのではないかと。こんな場所でも古事記ぶちかまして、「それはやれん」と断るように仕向けたのってよほど教養と学がないとできないですよね。
(このシーン、高良健吾ができるのかちょっと気になる。あの脚本故に)
それに、かつて租借地にされていた清國・上海の姿を見たことがあるから自分の国がそうなるのが許せんかったのかもしれません。
結局、この交渉では「彦島の租借地」以外の条件を受け入れたとのこと。
その後は長州藩での体制もコロコロ変わって、遊撃隊と力士隊80人を率いて「これよりは 長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と言い挙兵(功山寺挙兵)、長州藩も倒幕の動きになったと言えます。これが大政奉還のキッカケだと言えます。
しかし、かつてから肺結核を患っており、1867年5月17日に江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去った(享年27)。
この人は、あまりにもセンセーショナル過ぎた振る舞いが人生を早く生き過ぎたのではないかと思います。
師の吉田松陰にもいえるけど、先を見過ぎると手元が狂って死期を早めたのではないかと。
