前回からの続き(9月6日のこと)です
光悦寺から東へ歩いて、信号の手前にあるのが御本尊・釈迦牟尼佛
HP・源光庵
駐車場・あり(たぶん秋のみ有料)
拝観時間・9:00〜17:00(16:30受付終了)
鷹峰山と号する曹洞宗の寺である。
貞和2年(1346)に大徳寺の第二世・徹翁国師によって創建され、当初は臨済宗に属していたが、元禄7年(1694)、加賀国(現在の石川県) 大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)禅師により再興され曹洞宗に改められた。
本堂には、本尊釈迦牟尼仏及び霊芝観世音像を祀っている。本堂から庭園を望む壁面には、「悟りの窓」という丸窓と「迷いの窓」という角窓が並び、前者は「禅と円通」の心、すなわち何事にもとらわれない、おおらかな境地や大宇宙を、後者は「人間の生涯」、生老病死の四苦八苦を象徴しているといわれ、いずれも仏教の真理を表している。また、堂内の天井は、もと伏見城の床板で、慶長5年(1600)の落城の際、徳川家康の忠臣・鳥居元忠らが自刃した時の血痕が残っているものを、供養のためここに移したもので、血天井として知られている。
境内裏の「稚児井戸」は、創建されたころ、水に窮した徹翁が、童子に教えられて得たもので、多くの人を救ったと伝えられている。
京都市
(原文のまま)
一番最初の画像が山門ですが、西から行くとこちらが先にあるので、こちらから入ってました

こちらは駐車場の入り口でした🤣
そこには血天井の看板も

そこから入ると、山門から入った参道がこんな感じで見えました😅

山門(中門?)

その手前右側に鐘楼

山門アップで

山門を抜けます

後ろから

正面に見えるのは本堂

拝観では上に上がることが出来ます
受付は右手の建物

萬福寺で見た開梆(かいぱん)

人が居られる所が受付です
反対から

受付の前辺りはプチ庭園

受付済ませ(拝観料400円)、本堂を横から

こちらは撮影OKと入った辺りにも書かれてました👍
真っ直ぐ行くと書院のようだったので、手前を曲がって本堂へ
その手前にも中庭が見える窓がありました😄

「そうだ京都、行こう」の時のポスター

そうだで使用された所には、たいていその時のポスターが展示してあります
(*´艸`*)
血天井の解説もありました
少し(だいぶ?)長いですが、文字起こししてます😅

伏見桃山城遺構血天井
豊臣秀吉(慶長3年没)の死後、徳川家康は既に所領二百五十万石、家康は天下の権を握ったも同様であった
慶長4年3月13日家康は伏見桃山城に入った。ところが陸奥、会津若松にあつて百五十万石をうけていた五大老の一人である上杉景勝が叛すとの情報が入り注進をうけた家康は慶長5年(1600年)6月16日伏見城を出て会津へ向った。このとき伏見城本丸に鳥居彦右エ門元忠、二ノ丸松平主殿頭家忠、松丸に内藤弥次右ヱ門家長を留守居とした。家康は元忠に「わずかばかりの兵を残して行くが、伏見は要衝であるから顔むぞ」と云えば、元忠は「会津はなかなかの強敵です、一人でも多くの兵を連れて行かれた方がよろしいと思います。伏見は私一人で結構です。もし伏見で変があっても誰も助けてはくれますまいたとえ何万の兵を残されても結局は同じことです」と云い 「もし会津出兵中に変事がなければまたお顔を拝することが出来ましょう、しかし事あればこれが永遠のお別れです」 この言葉が事実となってあらわれたのは、家康が江戸へ入り軍勢を整えていたときであった。
7月18日伏見城守護の元忠のもとへ石田三成、増田長盛らが使者を立て、「伏見の城は太閣が築かれたもので徳川のものではない、早く城を出て大阪の秀頼へ忠をつくされては如何」と申し入れてきた。家康が江戸に入ったのをみとどけると三成は罪状十三条(家康は太閣の遺言にそむき秀頼をみすて政務を独裁している)を並べ諸方に奮起をうながしていた。集ます兵力九万三千七百余、家康をむかえうつ拠点として血祭りに伏見開城を迫ったのである。元忠は「主君家康公は、会津へ出発の折り、固く城を守るべしと云い残しておかれた。どうして主君の命にそむけよう、かくなる上は城を枕に討ち死にする以外にない。」と拒絶した。これを聞くや翌19日夕刻、三成に加担する兵四万がひしひしと伏見城を包囲した。城兵わずかに千八百人を数えるのみであった。
伏見城の攻略は十日余り続いた。七月末の夜ついに忍びの甲賀の者、内通し松の丸に火を放った。これに勢を得た寄手 (よせて)がどっと乱入、内藤家長55オをもって戦死、松平家忠も45才を一期に散り、部下将卒すべて切腹した。 鳥居元忠戦い疲れて本丸玄関に腰をかけ息つぐところへ雑賀孫市(秀吉直属の鉄砲頭)が死体をふみ越え肉薄これをみた元忠は「われは総大将鳥居彦右衛門なり、首を取って功名にせよ。」と叫び自ら腹をかききった。ときに元忠62才、ともに討ち死した部下380人と云われる。
なお鳥居元忠の首は大阪京橋口にさらされたが、元忠と交わりのあった京の呉服商佐野四郎右衛門が「さらし首とはあまりにむごい」と夜半に盗み出し智恩寺の墓に葬ったと云われる。
現在血の染った天井は討ち死した兵士の残せるもので床板を天井としたものである。その血板は本堂全域の天井にわたるが数と処に於て鮮明な足型、手型等の血跡があり当時の悲惨さを物語っている。
当寺は開山卍山禅師と徳川家との密接な関係により、 当寺本堂再建の際、伏見桃山城の床板の一部を移したもので、これら諸兵の菩提を弔って居り、現在文化助として維持している。
禅曹洞宗別格地
鷹峰山 源光庵
(原文のまま)
ここから本堂に入ります

入って右側から先ほど見た中庭

その奥が書院
そしてこちらが「悟りの窓」(左)と「迷いの窓」(右)

この時期は人も少なく(僕入れてもこの場には3組くらい)、じっくり撮ることが出来ました
迷いの窓正面から

悟りの窓正面から

この窓、もっと近くから見えるものだと思っていたら、仕切りがあってけっこう離れた所からじゃないと見れないことを現場で知りました😅
次は血天井も撮ってるので、苦手な方はスルーしてください🙇
画像だと分かりにくいですが、手足の跡などあります



ちなみに、血天井はこちらの他にも多数あります
本堂の様子

来た方へ戻って、受付を真っ直ぐ行った所にこのような部屋が右手にあります

左側は中庭


引きで

そしてこの様な襖がある書院では、縁側からゆっくり鶴亀庭園を見ることが出来ます

右側のはほんとに亀はこれじゃない!?と思えるものでした😄

少しアップで

庭園の左側

秋に訪れたときは、この時がこんなだったから油断してましたが、メチャクチャ人が多かったです🤣
もう全く違う場所の如く😂
鷹峯はどちらかと言うと、市内から外れていて交通の便が悪い方(バスなどは通ってますが電車はない)だと思うので、季節によっては少なそうですが、秋はさすがにそんなの関係ねぇ(小島よしお風に😁)
のようでした
こちらで頂いた御朱印(300円)です
由緒書き
この日のこと続きます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ



