前回からの続き(5月18日のこと)で、平城宮跡の続きです


平城宮いざない館の前に銅像がありました
棚田嘉十郎像

解説
棚田嘉十郎 
 万延元年(1860)、現在の奈良市須川町に生まれる。明治の中頃、奈良公園で植樹の職にたずさわっているとき、観光客から平城宮跡の位置を問われ、荒れ放題の宮跡に保存の意を強める。明治35年(1902)、地元での平城宮跡保存の運動が高まると嘉十郎も参加、平城神宮の造営をめざしたが、資金面で行き詰まる。
  以来、嘉十郎は、貧窮の生活のなか、自費で平城宮跡の保存を訴え、上京を繰り返し、多くの著名人から賛同の署名を集める。そのようななかで、地元の有志・溝辺文四郎らは、寿十郎の運動に協力し多くの援助をおこなった。
  明治43年(1910)平城奠都1200年祭が企画されると、嘉十郎は当時の知事に協力を得て、御下賜金300円をたまわるなどして成功に導く。その後、大正2年(1913)徳川頼倫を会長に念願の「奈良大極殿址保存会が」組織され、大極殿に標石28基を配置するとともに記念碑を建てて往時の遺構を永久に保存することを決め、嘉十郎の労がはじめて日の目を見ることとなった。しかし、用地買収が軌道にのりだして間もなく、嘉十郎が推挙した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し、大正10年(1921)8月16日自刃。嘉十郎は、61歳の生涯を閉じた。
  苦難に満ちた嘉十郎の悲願は、支持者の努力により達成され、嘉十郎自刃の翌年、大正11年(1922)に国の史跡として保護されることとなった。

  KAJURO TANADA (1860-1921), A GARDENER, DEDICATED HIS LIFE AND FORTUNE TO THE PRESERVATION CAMPAIGN OF THE SITE OF THE IMPERIAL PALACE OF THE 8TH CENTURY CAPITAL OF JAPAN TANADA AND HIS SUPPORTERS EFFORTS WERE REPAID BY THE APPOINTMENT OF THE PALACE SITE AS A NATIONAL HISTORIC SPOT BY THE NATIONAL GOVERNMENT IN 1922, ONE YEAR AFTER HE COMMITTED SUICIDE IN DESPAIR. 
 顕彰会は、棚田嘉十郎翁と溝辺文四郎翁の平城宮跡保存につくた功績をたたえるため、昭和63年7月発足いたしました。市民はじめ多くの方々からの御寄付により顕彰像の建立にいたりました。像は、棚田翁が左手に平城宮跡から出土した瓦を持ち、右手で大極殿跡を指差す姿です。 
 平成2年(1990)8月16日
棚田嘉十郎・溝辺文四郎翁顕彰会会長
 奈良市長  西田栄三
        像制作者 江里敏明

(原文のまま)
こういう人が居たからこそ平城宮跡が残せた訳ですが、まだ文化財の保護とかの法整備出来てなかったからこの方が個人でされてなかったら今頃は京都みたいに建物が建っていたかもしれないですね!?😅

角度を変えて

遠くから見た朱雀門

平城宮跡のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ