前回からの続き(5月17日のこと)で、元興寺の続きです




奈良時代創建時の大坊には、北側に奥行の狭い小子房が並行して存在した。中世には厨房として機能していたが、寛文3年(1663)に改修されて極楽院庫裏となった。昭和24年(1949)には極楽院保育所として本堂南側に増改築移建、さらに昭和40年(1965)現在地に曳家された。調査により奈良時代の古材の一部が用いられていることが判明したので小子房の後身とされた。
平成6年(1994)、西側に茶室を設け、大和の指物師の名匠、川崎幽玄(1905~2000)の作品を伝えている。
(以下、原文のまま)







禅室(僧坊・国宝)

奈良時代の僧坊は、講堂の北に東西ふたつの「室」に分かれ、それぞれ、南北のふたつの「階」に区別されていた。各階には、大坊と小子坊が一組として造られ、あわせて四組の僧坊が存在した。僧坊は住居・学修・瞑想の三間一房からなり、瞑想 (禅定)を重視したことから律院の禅室と呼ばれた。この禅室は東室南階大坊のうち、四房分が現存している。
鎌倉時代に修理を受け、貫材を加え、垂木先を材で隠すなど、天竺様の技法をみせる。しかし、東西の妻面には、二重虹梁・墓股なる奈良時代に独特の構架法を確認できるので、現存する官大寺僧坊建築遺構のひとつである。





江戸時代の奇石を記す『雲根志』には、「大坂城の蛙石」とある。もと河内の川辺りにあったが、大閤秀吉により大坂城に召し出されたという。その名は外形が「蛙」に似ることによろうが、淀君の霊が籠るともいい、 城堀に身投げした人は、必ずこの石の下に帰り着くといわれ有名であった。いわゆる「殺生石」のひとつであり、近代には乾櫓から堀をはさんだ対岸隅にあったという。
ご縁あって当寺に移され、極楽堂に向かって安置されている。当寺では、「福かえる・無事かえる」の名石として、毎年7月7日に供養している。






















