前回からの続き(4月12日のこと)です

御香宮神社を後にして、帰りながら寄り道して桜を見て行きます🤣

次に寄ったのは
墨染寺(ぼくせんじ)
こちらは以前、伺っています
こちらの桜はブロ友さんもよく書かれてたので、気になっていました
前回行った時は季節が違っていたし😅

駒札
墨染寺
  山号を深草山と号する日蓮宗の寺院である。
  もとは清和天皇の貞観16年(874)に建立された貞観寺の旧蹟で、その後次第に衰微していったが、天正年間(十六世紀後半)、増長院日秀上人豊臣秀吉公の知遇を得、また秀吉公の姉瑞龍尼(ずいりゅうに)公の篤い帰依を受けた事により、此の地を日蓮宗の寺として再興する事を許され、墨染櫻寺(ぼくせんおうじ)として再興させた。 

  境内には、墨染(すみぞめ)の地名の由来となった墨染桜が植えられている。この桜の由来は平安時代まで遡り、時の太政大臣 藤原昭宣公が葬られた際、その死を嘆き悲しんだ歌人 上野峯雄が「深草の 野辺の桜し心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」と詠んだところ、当地に咲いていた桜が喪に服するかのように薄墨に咲いたと云われる。この墨染桜によって、当寺は地域の人々から「桜寺」の通称で親しまれている。見頃は四月中旬前後。

  本堂の本尊勧請形式は「一塔両尊四士」。また、本堂横の鬼子母神堂には、伝教大師御作と伝わる安産成就・子育成就の子安愛敬鬼子母神像が安置されており、地域の人々をはじめ広く信仰を集めている。 

  京都市
(原文のまま)

山門くぐって見える景色
目の前に見えるのが本堂

参道の右側に石碑・壽碑(じゅひ)

解説
壽碑
惟(おもんみ)るに当寺は清和天皇の勅創たる貞観寺の旧跡なり
堀川左大臣藤原基経昭宣公 薨(こう)じて遺骨を此の地に殯(かりもがり)したもうや
上野峯雄哀傷の情を和歌に託して日く
「深草の野辺の桜之心有らば今年ばかりは墨染に咲け」と
此の地の墨染の称は(或は此の地を墨染と称するは)蓋(がい)し此の歌詞に因るなり
後に大僧都日秀上人道譽頗(すこぶ)る崇し
豊公(秀吉)深く之を信じ挙げて此の地を上人寄附して本宗に属し
銘(な)を墨染桜寺と改む殿堂高閣にして輪煥(りんかん)の美備わる
爾来(じらい)星霜数百年寺運振わず塚を破り碑を断ち累々として
四方(あたり)に狼藉する荒凉の状轉感概(じょううたたかんがい)の情堪えざるなり
爰(ここ)に第三十七世学妙上人先に宇治直行寺(じきぎょうじ)に住し次いで
梅津本福寺に転ずるも夙(つと)に当山の廃類せるを概(なげ)き意(こころ)に回復の事を期し
入りて此寺に主となるや乾々赬尾寒暑(けんけんていびかんしょ)にして虚日(きょぢつ)なく
復興に是努む 依って聊(いささ)か師恩に酬いんがために寿碑を寺の側(かたわら)に建て
日常の微事を勒(きざ)みて之を伝へて不朽ならしめんと欲し文を余に微す
余と上人とは同じく達門の流類なり敢(かんし)て辞せず乃(すなわ)ち
上人の行跡を按じて其の梗概(きょうがい)の系(つなぎ)を叙して銘じて曰く
    千歳(せんざい)跡遠く  廟影空しく  傾く
    乾(ここ)に力を致(ち)して  忽(たちま)ち法城を現す
   顕徳測叵(けんとくはかりがた)し  誠の点晴を積むは
維(こ)れ労維れ績(いさを)   (きざ)勒んで永く  彰旌(あらわす)
平成十六年十二月吉祥
(原文のまま)
石碑の方は漢文なので、さっぱり読めません🤣

さてここから境内の桜がメインとなります

参道を少し行って振り返る


本堂と日蓮聖人像

本堂に反射する桜


本堂の手前左側の桜は満開でしたひらめき



真ん中にあった大きいのが墨染桜かな?




本堂横より参道を見る

御衣黄

4代目 墨染桜

アップで


動画も撮ってみました

境内はそんな広くないですが、その割りに?桜が多いのが分かって頂けるのではないでしょうか!?😊


桜が咲いてる頃にはライトアップもあるようでした指差し

駐車場は分からなかったので、近くのコインパーキングに入れて行ってます😌
この日のこと続きます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ