前回からの続き(11月10日のこと)です
車で移動して、次のモダン建築祭の会場へ向かいます
次の目指した会場は京都府立医科大学!

門も立派な門がありました
解説

大学門
この大学門は、本学の創立140周年を記念して、建築家 高松伸氏のデザイン・ 設計・監修により改築整備したもので、前身である「京都療病院」が粟田口青蓮院から現在地に新築移転した1880年(明治13年)当時の正門を一部再現し、140年の歴史と未来に向かって更なる発展をめざす大学の姿を表しています。
(一部抜粋)

門の右手側から入れる所がありました

そこから真っ直ぐ歩いて、すぐに右手に公開されてる建物が見えました
京都府立医科大学 本部棟

住所・京都市上京区河原町広小路上る梶井町465
建築情報
竣工年/昭和4(1929)年
設計/十河安雄
施工/上田辰三
構造・規模/鉄筋コンクリート造・地上3階、地下1階
用途/図書館、講義室(現・事務室、講義室等)
公開場所 1階歴史館、3階西側階段教室
解説
京都随一のネオゴシック建築
反復される尖頭アーチ
内部には、当時流行したアールデコ風のステンドグラス
公開された階段教室の作り付けの机椅子も含め当時のまま
(京都モダン建築祭HPより)
・靴脱ぐとこなし
・撮影は全てOK
・3階の階段教室はけっこう広いので人数制限などは無さそうな感じです
周りが近代的な建物が多かっただけにその存在感が際立ちました

右角と窓枠など


正面・中央メインで

少しアップで

彫刻とか、デザインとか見てても飽きないものでした

中央部分を横から


中央部分の横、右側の下側をアップで

窓のテラス?部分を下からアップで

内部で会場となっていたのは、電気が点いている所

近くにあった石碑

その前に解説

療病院碑
京都府立医科大学と附属病院の前身である医学校と療病院は、1880年(明治13年)7月18日、現在の広小路の地に約6年の歳月を費やし、栗田口青蓮院内に設置されていた仮病院から新築移転した。日光宮里坊、二條、正親町の三旧邸の跡地に、ライブチッヒ大学病院をモデルにした療病院8,451坪(27,937.1㎡)および医学校693坪(2,290.9㎡)の当時としては最高の施設が誕生した。工事には府民が無償奉仕し、落成式には槇村正直京都府知事、萩原三圭医学校校長、ドイツ人教師ハインリッヒ・ボト・ショイベら多数が出席したが、「療病院の竣工を歓喜する満都の人気をわかし、種々の余興を催して蝶舞雀躍、その盛況は開都以来未曾有のこと」といわれた。後日、開院を記念して建てられたのが療病院碑であり、瀬田真黒石でできている。碑は設立当時、正門を入ってすぐ左側に建っていたが、旧臨床講堂南側、記念講堂跡地の中庭を経て、2001年(平成13年)2月に現在の場所に移された。
明治の初期、東京遷都によって「平安京の都」から一地方都市となった京都の衰退をくいとめ、新時代に生きる都市として再生させるため、勧業政策と教育政策が槇村正直や京都府顧問山本覚馬(後の初代府議会議長、初代商業会議所会頭)らによって強力に推進された。その政策の一つとして、青年蘭方医明石博髙(あかしひろあきら)が中心になって1872年(明治5年)11月、青蓮院にヨンケル・フォン・ランゲックを招いて、ドイツ医学を主体とした療病院と医学校が設立された(同年9月、木屋町二条に仮療病院開設)。 設立は京都府の費用のほかに、京都の名だたる寺院や祇園の芸妓など花柳界、さらに一般府民、市民の浄財、拠出金や寄付金に よった。
療病院という名称は、設立基金の発起人である三人の寺院住職、東山天華(永観堂原林寺)、与謝野礼巌(岡崎願成寺、与謝野鉄幹の父)、佐々間雲嚴(慈照寺)らによって、593年(推古元年)に聖徳太子の建立した四天王寺の四箇院(施薬院、療病院、 悲田院、敬田院)の一つにちなんで命名された。療病院が寺院の中に配置されていたことは、単に人々の病を治すという機能だけでなく、心の痛みや死への不安を癒す慈悲の精神に裏打ちされていたことを示す。
明治の初期、東京遷都によって「平安京の都」から一地方都市となった京都の衰退をくいとめ、新時代に生きる都市として再生させるため、勧業政策と教育政策が槇村正直や京都府顧問山本覚馬(後の初代府議会議長、初代商業会議所会頭)らによって強力に推進された。その政策の一つとして、青年蘭方医明石博髙(あかしひろあきら)が中心になって1872年(明治5年)11月、青蓮院にヨンケル・フォン・ランゲックを招いて、ドイツ医学を主体とした療病院と医学校が設立された(同年9月、木屋町二条に仮療病院開設)。 設立は京都府の費用のほかに、京都の名だたる寺院や祇園の芸妓など花柳界、さらに一般府民、市民の浄財、拠出金や寄付金に よった。
療病院という名称は、設立基金の発起人である三人の寺院住職、東山天華(永観堂原林寺)、与謝野礼巌(岡崎願成寺、与謝野鉄幹の父)、佐々間雲嚴(慈照寺)らによって、593年(推古元年)に聖徳太子の建立した四天王寺の四箇院(施薬院、療病院、 悲田院、敬田院)の一つにちなんで命名された。療病院が寺院の中に配置されていたことは、単に人々の病を治すという機能だけでなく、心の痛みや死への不安を癒す慈悲の精神に裏打ちされていたことを示す。
本碑文には、京都府立医科大学が千年の都に培われた歴史の礎の上に誕生したことを示す表現が随所に見られ、本学草創の 理念が力強く語られている。
療病院碑(読み下し文抜粋)
人にして疾病なるや、学ばんと欲すれば能はざるなり。人におう贏なるや、勉めんと欲すれども、亦能はざるなり。学ばず勉めざれば、何を以てその才を殖やし、その家を富まさんや。夫れ、人材乏しくして民戸貧しきは、及ち国の病なり。是の故に、 施政の務めはいまだ民の疾病を除きて、その健康を保つより急なるは有らざるなり。我が府、維新の聖旨を奉じ、つとに種疫術を行ひ、駆疫法を布き、遠く名医を海外より徴し、以て衛生医薬を改良し、まさに大いに救済するところ有らんとす。
(療病院建設の経緯・・中略)
今より後、民の疾病を除きてその健康を保つは、難きことにあらざるなり。こひねがわくば、後の政をこの土に為す者、能くその始を思ってその終わりを善くし、敢えてこれを廃墜有ること莫く、斯民をして永く明治の皇沢にうるおはしめよ。因りてその顛末を記し、石に刻して以て後人に告げしめんとす。明治13年12月
京都府知事 槇村正直
(原文のまま)
受付は入り口付近にありました


建物にも解説?


一応、撮ってみましたが、ご覧のように上手く撮れないタイプのものだったので、文字起こしはなしで
本部棟のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ

