前回から続き(11月9日のこと)で、京都大学総合博物館の続きです
2階へ移動すると、更に標本が凄くありました

昆虫好きには堪らなそうです( *´艸`)

2階はこんな感じ

一部、ジャングルとかが再現されています
隣の棟へ移動する途中には技術史展示場

これはほんの一部のスペースでした
移動した棟の2階にあったのは古文書などの展示

日本の古文書
日本列島で初めて、文書や帳簿を徹底的に利用した支配を行ったのは、古代律令国家であった。やがて古代国家の体内からさまざまな集団が新たに成長し、中世の社会と国家を作り上げていった。公家・武家・寺社・村・町などの社会集団は、それぞれの活動にふさわしい文書の様式と体系をつくりあげ、日本中世・近世の文書を多彩なものとし た。ここでは博物館に所蔵する中世・近世文書のうち、代表的なものを展示する。
日本列島で初めて、文書や帳簿を徹底的に利用した支配を行ったのは、古代律令国家であった。やがて古代国家の体内からさまざまな集団が新たに成長し、中世の社会と国家を作り上げていった。公家・武家・寺社・村・町などの社会集団は、それぞれの活動にふさわしい文書の様式と体系をつくりあげ、日本中世・近世の文書を多彩なものとし た。ここでは博物館に所蔵する中世・近世文書のうち、代表的なものを展示する。
(以下原文のまま)
ここでは気になったものが多々あったので、抜粋して紹介します
六波羅施行状(複製)

鎌倉幕府は京都に六波羅探題をおいて京都・西国関係の政務をとらせた。六波羅探題は独自に文書を出すこともあったが、ここでは鎌倉幕府の命令を紀伊国守護代に伝えている。 武蔵守は北条泰時、相模守は北条時房。
足利義満御判御教書(複製)

御判御教書は室町幕府でもっとも格の高い文書で、将車みずから花押をすえる。義満は相手によって武家花押と公家花押を使い分けたことで知られるが、この時期はまだ公家花押は用いず、もっぱら武家花押を用いていた。
こういう使い分けをしてたなんて知りませんでした😲
京都図もいろいろ展示されていました

近世の京都図

日本で最も古くから都市図の刊行が始まったのが京都である。『都記(みやこのき)』は、現存する日本最古の刊行都市図である。江戸中期には、地誌的情報を充実させ、華麗な手彩色を施した大型の京絵図を刊行した林吉永(はやしきちえい)が代表的版元となった。江戸後期には、竹原好兵衛(たけはらこうべえ)が、多色刷りの京都図を刊行して市場を席巻した。近世京都図の特徴 の一つは、京都の都市としての特性を反映して、観光図・ 名所図の色彩を色濃く備えていくことである。
現代と比べて見ると面白いです
改正京町絵図細見大成 洛中洛外町々名全(複製)

天保2(1831)年
解説

京都図としては最大の一枚刷りである。多色刷りで、カラフルな点でも見る者を魅了する。洛中とその周辺部では縮尺を統一するが、 縁辺部の縮尺を次第に小さくし、多くの名所旧跡を描き込む。本図は幕末までの30余年も版を重ねた竹原好兵衛の代表作である。
また古文書に戻ります
後醍醐天皇綸旨(複製)

丹波国波々伯部保(兵庫県篠山市)を祇園社領として安堵した文書。編旨は天皇の仰せを伝える文書で、このように宿紙 (漉き返した紙)を用いるのが原則であった。後醍醐天皇の綸旨至上主義は、彼の政治姿勢を物語るものとして名高い。
これは篠山に関するもので、佐々伯部という所には佐々伯部神社というのがあり、入り口の解説にも祇園社と関係する話が載っています
朝廷・公家文書の展開

中世の武家文書

武家の文書

中世の武家の下達文書(命令)は、公家文書の様式を継承し、下文の系統と、御教書・奉書などの書札様(しょさつよう)文書の二つの系統に大別される。また武家独自の文書として、下文に書札様文書の様式を加えた下知状(げちじょう)が生まれた。鎌倉幕府では下文・ 下知状が主要な文書であったが、室町幕府では御教書・奉書などがこれにかわる。戦国時代になると東国の大名が花押にかえて印判を押した印判状を用いはじめ、これは信長、秀吉 にも継承されて、近世に広く用いられた。
織田信長朱印状(複製)

公家勧修寺家に山城国西庄村(京都市)三十石を与えた文書。信長の「天下布武」の朱印が捺されている。信長は永禄10年(1567)、岐阜入城を機に「天下布武」印を使いはじめた。この馬蹄形の朱印は元亀元年(1570) 以後のもの。
有名な天下布武に纏わる話でした
豊臣秀吉朱印状(複製)

公家勧修寺家に丹波国船井郡刑部村(京都府南丹市)・須知村 (京都府船井郡)を与えた文書。宛所「勧修寺殿」を低いところに置いた、尊大な書式をとっている。料紙は大高檀紙。楮紙の一種だが、特に大型で厚みがあり、近世統一権力の権威を示す。
こちらには南丹市や船井郡などやはり身近な地名が出てきて歴史の繋がりを感じます♪😌
1階へ移動しました
今度は考古常設天自室です

ここも気になったものを抜粋して紹介
キリシタン墓碑

解説

キリシタン墓碑
17世紀初頭に作られた、京都のキリシタン達の墓碑である。板碑形と蒲鉾形の2種類のものがあり、年月日と該当するカトリックの祝日、被葬者の名前や洗礼名などが記されている。もっとも新しい年号をもつ墓碑は、慶長18 (1613) 年のものである。慶長19年には江戸幕府によるキリシタ ンの大弾圧が京都でも行われており、キリシタンの活動は壊滅的な打撃を被るに至った。

石棺

長持形石棺 (重文)
京都府城陽市久津川車塚古墳 5世紀
その奥にもいろいろ展示されていました

縄文時代の北白川

京都大学北部構内の東にひろがる白川の扇状地上には縄文時代の遺跡が集中し、北白川遺跡群と呼ばれている。なかでも主要な遺跡のひとつである北白川小倉町遺跡では、1934年の発掘調査によって、石鏃(せきぞく)、石鐘(せきすい・おもり)、石皿・磨石などの、狩猟、漁撈、 採集、および食料の加工に使われた道具のほか、大量の縄文土器が出土した。この地域で出土した土器は、西日本の縄文土器の編年を組み立てるうえで重要な役割を果たしている。
古墳と埴輪

濱田教授とペトリー先生

解説

本学考古学研究室の創設者である濱田耕作は、3か年にわたる欧州留学によって欧米の考古学研究法を学び、それを導入することによって日本の考古学の基礎を築いた。なかでも、ロンドン大学 エジプト学のペトリーから、大きな影響を受けた。ペトリーは、エジプト考古学において、遺跡遺物の精確な測量による組織的な発掘方法をあみだし、日常的な出土品を重視する方法を定着させて、王朝以前の諸文化の編年を行うなど多大な成果を挙げた。
埴輪と器財

埴輪は古墳時代の器物や習俗を復原する上でも重要な役割をもつ。靫(ゆぎ)は矢を入れて背負うための武具で、革や木で作られたため通常は腐朽しており、形がわかる出土例は数少ない。この靫を模して作られた靫形埴輪から、もとの靫の形が復原できる。三重県伊賀市石山古墳の靫形埴輪は、方形の埴輪列の外に一列に並べられた。 その靫形埴輪の表面には、直弧文(ちょっこもん)と呼ばれる古墳時代独特の文様が施されており、この文様は呪術的な意味をもつと考えられる。そのほかの器財埴輪として、従者が貴人にかざす蓋を模した埴輪も代表的な器材埴輪であり、京都府宇治市庵寺山(あんでらやま)古墳の資料はとくに名高い。
土偶

家形埴輪

こんな甲冑(復元)も展示されてました

後ろ姿

横から

5世紀のもので、発掘された場所は京都府京丹後市のニゴレ古墳
京丹後でこんなのも出土してたとは思いませんでした😅
瓦の変遷

解説

日本の瓦は、寺院の屋根を葺くものとして導入され、古代寺院の造営の普及とともに各地にひろまった。文献には、日本最初の瓦である飛鳥寺の瓦が、百済の瓦工によって作られたと記録されている。このことは、百済と飛鳥寺の軒先用の丸瓦の蓮華文様が類似していることからも裏付けられる。藤原宮以後の宮都においても瓦が使用されるようになり、その需要が増大する。そのため、瓦を焼く窯も、須恵器の窯に似た初期の窖窯(あながま)にかわって、瓦を焼くのに適した平窯が用いられる ようになった。
瓦窯 平窯(模型)

京都市伏見区 小栗栖瓦窯(法琳寺瓦窯)
東アジア考古年表

とまあ、さすがに展示品が多く、見甲斐のある博物館でした
中にはミュージアムショップもありましたよ
こちらでゲットしたもの
栞🔖(無料)
過去の特別展のリーフレット
引き続き京大関係の所へ行きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ




