前回からの続き(11月3日のこと)です
駐車場へ戻るために、御池通りを西へ向かっていると、右手に石碑や解説があるのを見つけました♪
( *´艸`)
堀河院跡
住所・京都市中京区森ノ木町
京都市立京都堀川音楽高等学校という学校の門の入り口にありました
石碑

その前に解説板

堀河院跡
北を二条大路(二条通)、南を三条坊門小路(御池通)、東を油小路、 西を堀川小路(堀川通)によって画された東西約120メートル、南北約250メートルの地が、「左京三条二坊九・十町」である。平安時代前期、 ここには藤原氏隆盛の端緒を開いた関白太政大臣藤原基経(もとつね・836~891)の邸宅である堀河院が所在した。基経の後も、この邸はその子孫の左大臣藤原仲平(なかひら)、関白太政大臣藤原兼通(かねみち)、左大臣藤原顕光(あきみつ)などに受け継がれ、平安京における最高級の邸宅として知られていた。堀河院の東にも関院、東三条殿という藤原摂関家に関わる大邸宅が存在した。
貞元元年(976)に内裏が炎上した際、円融天皇はこの堀河院に移り、それは「今内裏」と呼ばれ、里内裏(さとだいり)の初例となった。 天皇は上皇となった後も、しばしばここを御所としている。
堀河院が最も脚光を浴びたのは、堀河天皇の里内裏の時である。 同天皇は嘉承2年(1107)に崩御するまで、生涯の多くをここで過ごした。堀河院は嘉保元年(1094)に焼失したが、長治元年(1104)には美麗に再建されている。
堀河院跡の発掘調査で は、邸宅の中央部にいくつ もの池があり、そこには高さ1メートルの石組の滝が備えられ、数多くの景石が配置された見事な景観を作り上げていたことが判明している。
令和五年八月
公益財団法人古代学協会 設置
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その藤原基経ですが、以前紹介した漫画「応天の門」に出てきます
第5巻の表紙を飾ってます

見ての通り悪い人物です🤣
藤原基経
836〜891年2月25日
平安前期の公卿
人臣最初の関白
堀川太政大臣と称される
藤原総継(ふさつぐ)3男
藤原良房(よしふさ)の養子となり、29歳で参議
貞観8(866)年、中納言
貞観14(872)年、右大臣
貞観18(876)年、陽成天皇が即位すると摂政
元慶4(880)年、太政大臣
陽成天皇が15歳で元服したとき、粗暴な振る舞いに手を焼き摂政を辞任
元慶8(884)年、格殺事件口実に陽成天皇を退位に追いやる
その後継に光孝天皇を立て、事実上の関白に
朝日 日本歴史人物事典参照)
そんな人物が住んでいたと所のようです
この日のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ
