前回からの続き(3月13日のこと)です
今回は京都市考古資料館でその頃やってた展覧会のことです紫式部の平安京

公開は既に済んでいます🙇
入り口入ると、そこには紫式部の顔出しパネル

これであなたも紫式部🤣
考古資料館は幾度となく訪れ、その時々の大河に纏わる展示など大変参考になり、お世話になっています

何がいいかと言うと
無料!
ソコカイッΣヽ(゚∀゚;)
それは半分冗談として、やはり発掘された物が実際見れたり、発掘当時の写真、復元されたイラストなど考古学などに興味ある人には言うことない施設だと思います
今回はタイトルでもお分かりのように、大河ドラマ「光る君へ」に関する資料が展示されていました
こちらは過去もそうでしたが、撮影OKなんでその一部を紹介していきたいと思います😄
なので、今回はかなり文字多めとなります😅
「光る君へ」が興味ある方は、何かしら参考になることがあるかもしれません
興味ない方は読み飛ばしてください🙇
まずは内裏に関するもの

解説

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内裏
一火災に見舞われる帝の邸宅一
平安宮の中央東寄りにある内裏は、天皇や后たちの居住空間です。内裏は、延暦13年(794)の平安京遷都とともに造営されますが、村上天皇の天徳4年 (960)に全焼します。その後も内裏は焼失と再建が繰り返され、天皇はその都度、 里内裏と呼ばれる京内の藤原氏の邸宅を仮の御所として移り住みます。「紫式部日記」に登場する内裏は、紫式部が一条天皇の中宮である藤原道長の娘彰子に女房として仕えていたときの一条天皇の里内裏である「一条院」のことです。
内裏跡の発掘調査では、内郭回廊跡、承明門跡の北側雨落溝、蔵人所町屋跡の雨落溝などが検出されました。2015年の発掘調査では、当初の登華殿(とうかでん)とみられる掘立柱建物のほか、その南側にあった弘徽殿(こきでん)の溝跡や両殿を繋ぐ渡り廊下の礎石とみられる遺構が初めて見つかりました。これまでの調査では高熱を受けて変形した土器片や瓦片、壁土片などが出土し、火災のあった史実をよく物語っています。
(原文のまま)
現在の地理と、その当時の様子

発掘されたもの

承明門の発掘の様子

小野宮 ー藤原実頼の池跡ー

解説

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小野宮
一藤原実頼の池跡一
小野宮は、9世紀後半、文徳天皇の皇子である惟喬(これたか)親王 (844~897)が平安京左京二条三坊十一町に構えた邸宅で、現在の烏丸夷川付近に位置します。親王の没後、小野宮は太政大臣・摂政を務めた藤原実頼(さねより・900~970)が伝領し、孫の実資(さねすけ・957~ 1046) へと相続されました。正暦元年(990)、実資は本格的な改造を開始しますが、 実資の日記『小右記』によると、寝殿を中心として東・西・北に対屋があり、寝殿の南に池、 池の南東には念誦堂(ねんずどう)が営まれていました。「手斧の音の絶えぬのは東大寺と小野宮だけである」(『大鏡』巻二) と書かれているように、大規模な造営工事が絶え間なく行われて いたようです。
2019年度に行われた発掘調査では、北東から南西に舌状に延びる池跡の一部を検出しました。池跡の北東端近くから景石が2基見つかりましたが、景石を安定させるために設けた据付穴の埋土から平安時代中期の人面墨書土器が出土しました。人面墨書土器は主に奈良時代から平安時代中期に穢れを祓う祭りに用いたものですが、この時期のものは珍しいです。顎鬚をたくわえた男性の顔が描かれています。
(原文のまま)
その出土品

人面墨書土器
藤原実資って誰?
いっぱい藤原氏が出てくるので、すぐに思い出せないかもしれないですよね!?😅
ロバート秋山さんが演じてる人物です😊
土御門殿 ー藤原道長の邸宅ー

まさに主役の邸宅😁
解説

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土御門殿
一藤原道長の邸宅一
土御門殿は、平安時代中期に摂政・太政大臣であった藤原道長の邸宅の一つで、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の里内裏として使用されます。平安京左京一条四坊十五・十六町の2町を占めており、現在の仙洞御所の北東部にあたります。「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」で知られる「望月の歌」 を詠んだのも、この土御門殿です。
長女の中宮彰子が出産を控えて土御門殿に里下りしたとき、これに仕えたのが紫式部で、『紫式部日記』は一条天皇の子を出産する直前から始まります。中宮と若宮に逢いに土御門殿に行幸する帝を迎えるために、庭の池に龍頭鷁首(りゅうとうげきす)の舟を浮かべて饗応 の準備をする道長を描いた「紫式部日記絵詞』の場面は最も有名です。
2000年に実施された発掘・立会調査では池状の堆積とともに土坑と景石3基を検出しました。中から11世紀前半の土器類がまとまって出土し、土御門殿の池跡と考えられます。土御門殿の北西にあたる左京北辺四坊五町からは、皇族や高級貴族に限って使われたと思われる白色土器が多量に出土しました。この付近には、藤原氏の関連施設が展開した見え、道長との関係が推定できます。
(原文のまま)
出土品

現在の様子
他の出土品

高陽院 ー藤原頼通の邸宅ー

解説

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高陽院 (かやのいん)
ー藤原頼通の邸宅ー
高陽院は、平安京左京二条二坊の4分の1にあたる北東部4 町を占める広大な邸宅です。現在の堀川丸太町交差点の東方に位置します。当初は9世紀に桓武天皇の皇子である賀陽(かや)親王が構えた1町規模の邸宅でしたが、寛仁3年(1019)に藤原道長の子、頼通(よりみち・992~1074) によって拡張されて4町とし、 治安元年(1021)に高陽院を完成させます。
万寿元年(1024)には後一条天皇や大皇太后彰子らを招いて競馬を開催しますが、その広大で優美な邸宅の様子は「駒競行幸絵巻(こまくらべぎょうこうえまき)」に描かれています。高陽院は幾度かの火災と再建を繰り返しながらも、後朱雀天皇を始めとして歴代の帝の里内裏となっています。以後、藤原氏に伝承されましたが、鎌倉時代の貞応2年(1223) に焼失しています。
高陽院跡は、これまで数次にわたって発掘調査が行われ、複数地点で頼通時代の庭園の一部とみられる池跡や洲浜・景石などの遺構が検出されています。敷地の中央には2つの池が広がっており、平安時代中期から後期にかけて4時期の洲浜が確認され、 火災などで再建と改修が行われていた実態が明らかになりました。
また、園池の北西では頼通時代の礎石建物の北西部と、東西廊の一部が見つかりました。建物の礎石は大阪湾岸から運ばれた和泉砂岩が使われており、「栄華物語」の「この世のことと見えず。海竜王の家などこそ、」という一節にふさわしい邸宅の様子がう かがえます。
また、園池の北西では頼通時代の礎石建物の北西部と、東西廊の一部が見つかりました。建物の礎石は大阪湾岸から運ばれた和泉砂岩が使われており、「栄華物語」の「この世のことと見えず。海竜王の家などこそ、」という一節にふさわしい邸宅の様子がう かがえます。
(原文のまま)
「光る君へ」で頼通を演じておられるのは渡邊圭祐さん(左)
この方が晩年、平等院を建てた人になります
それを復元したのがこちらになるようです
東三条殿復元模型の画像

(京都府京都文化博物館所蔵)
高陽院出土礎石 和泉砂岩

紫式部ゆかりの寺院 ー仁和寺ー

解説

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紫式部ゆかりの寺院
一仁和寺一
「源氏物語」「若菜上」の巻で、光源氏の異母兄弟である朱雀院が出家の準備をしてきた「西山なる御寺」は、仁和寺がモデルだとされています。
平安京の北西、御室に位置する仁和寺は、仁和4年(888)、宇多天皇(867~931)が先帝、 光孝天皇の供養のために創建した寺院です。円堂院は院家の一つで、八角円堂を中心に 僧房、経蔵、護摩堂・中門・西門などの存在が知られます。1961年、1976~1977年の発掘調査では、そのうち一辺 10.6mの八角円堂跡と、僧房跡の位置と規模が明らかに なりました。
借房跡からは「仁和寺」「南御房」と記された墨書土器とともに、白色土器、転用硯などが出土しました。さらに円堂院跡の周辺では、緑釉瓦が多量に出土しました。平安京において緑釉瓦は国家の重用な建物にしか葺かれていない特殊な瓦であることを考えると、宇多上皇の御顔である八角円堂の重要性が伺われます。
(原文のまま)
紫式部ゆかりの寺院 ー法成寺ー

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紫式部ゆかりの寺院
一法成寺(ほうじょうじ)一
法成寺は、藤原道長が建立し、平安時代中期に最も栄えた寺院です。道長は寛仁3 年(1019)に出家し、息子の頼通に摂政を譲りますが、翌年に自邸「土御門殿」の東、 東京極大路を隔てた4町を占める広大な敷地に、九体阿弥陀堂(無量寿院)を始め、次々と仏堂を造営します。天喜6年(1058)に全焼するも、頼通により直ちに再建されま すが、藤原氏の衰退に伴い鎌倉時代末期には廃絶しました。
法成寺の推定寺域内では、京都府立鴨沂(おうき)高等学校や京都迎賓館の建設に伴う発掘調査により、平安時代中期から後期の瓦が多数見つかりました。法成寺に関連する遺構を確認した事例はなく、緑釉瓦を通して『栄花物語』に描かれている法成寺の絢爛豪華なありさまを想像するのみでした。そのような中で、2013年度に行われた発掘調査により、法成寺の北限を示す東西溝と法成寺西北院に掘られた井戸などが初めて見つかりました。また各種の土器類とともに緑釉瓦が多量に出土しました。被熱により変形・変色しているものも含まれており、天喜6年の火災 によるものと考えられます。
(原文のまま)
光源氏の豪邸「六条院」のモデル
ー平安京右京三条三坊五町ー

解説

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光源氏の豪邸「六条院」のモデル
一平安京右京三条三坊五町一
平安京右京三条三坊五町は、現在の中京区西大路三条交差点の西側、島津製作所三条工場地内にあたる所です。これまで3回の発掘調査が行われ、平安時代前期の1町規模の邸宅が見つかりました。邸宅の北西部と南東部には各々2棟の大型建物が配され、北東部には東西に並ぶ建物と倉庫があり、これらを区画する南北・東西溝などが見つかりました。大型建物は平安京域でも最大級の建物であり、周辺からは当時の高級品であった灰釉陶器・緑釉陶器の優品が出土しました。
当地の居住者について文献の記録はありませんが、『拾芥抄(しゅうがいしょう)』によると、棲霞寺(せいかじ)の領地となっています。棲霞寺は嵯峨天皇の子で『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルとされる源融(みなもととおる・822~895) の山荘棲霞観を寺に改めたものです。したがって、当地は9 世紀前半には源融の邸宅地として利用されていたと推定されます。
(原文のまま)
光源氏の豪邸「六条院」のモデル
ー河原院ー

解説

光源氏の豪邸「六条院」のモデル
一河原院一
河原院は、平安京左京六条四坊十一町から十四町までの4割を占める。源融の邸宅です。場所は、現在の下京区の河原町五条の付近にあたります。源融が陸奥国の歌枕である「塩竈の浦」の景観を再現して、風流を尽くしたことは有名です。特に難波から海水を運ばせ、池に注ぎ、塩焼きを行ったという伝承は「宇治拾遺物語」などにも記されています。
河原院は「源氏物語」に登場する光源氏の豪邸、「六条院」のモデルと考えられています。 物語では、光源氏が自分の理想を求めて造ったもので、広大な邸を四町に区切り。各庭はそれぞれ春夏秋冬を楽しめるように工夫され、各季節にゆかりのある女君が主人として競いながら風雅な世界を造り出します。
1994年の発掘調查によって、河原院の庭園の池跡と推定される一部が見つかりました。 池跡の底は薄い粘土を貼り、その上に拳大の河原石を敷き詰めています。底に堆積した泥土の中から平安時代中期後半の遺物とともに、松・桃の種子、葉・枝などの植物遺体が出上しました。
(原文のまま)
六条院模型の画像

(源氏物語ミュージアム)
この六条院跡と言われているのが渉成園
がそれは伝説らしいです
ただ庭園内には塩釜跡とかはあります(*´艸`*)
本当に六条院跡と言われる場所は高瀬川の近くにあります
六条院跡 こちらに渉成園のこともリンクしてあります😌

「斎宮」の邸宅

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「斎宮」の邸宅
「源氏物語」の「賢木(さかき)」巻には、光源氏の年上の恋人だった六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が、 源氏と別れて、斎王に卜定(ぼくじょう)された娘とともに伊勢に下る話が記されています。
斎宮とは斎王が居住した建物のことで、さらには斎王自身をも表す言葉で す。未婚の内親王または女王から選ばれた斎王は、それまでの住まいから平安宮内の「初齋院(しょさいいん)」に移り、その後、 平安宮外の「野宮(ののみや)」で潔斎(けっさい)を重ね、伊勢神宮へ参入します。
2000年、平安京右京三条二坊十六町における発掘調査では1町規模の邸宅跡がみつかりました。現在の西大路御池交差点の北西に位置する京都市立西京高等学校の敷地北半にあたります。
東西約15m、南北約40mの池跡や木枠を組んだ泉跡、この園池を挟んで南北、東西に複数の建物跡など数多くの遺構が見つかりました。池跡から「齋宮」「齋雑所(さいざっしょ)」と書かれた墨書土器が出土し、泉跡からは平安京最大の人形代も出土しました。また、緑釉陶器や 灰釉陶器、輸入陶磁器などの施釉陶器には一般的な宅地では出土しない優品が多く含まれています。9世紀後半か10世紀前半にかけて営まれた邸宅と考えられます。
この邸宅の主については文献からは 明らかではありませんが、発掘調査の成果により、ト定された斎王が初齋院に移るまでの期間に居住した斎宮邸の可能性が高いと考えられます。
(原文のまま)
「斎宮」邸の復元図

(原図:梶川敏夫氏作)
「斎宮」邸の復元図

今回はたまたま「光る君へ」に合わせたかのような日曜日のアップとなりました😁
その「光る君へ」の収録も一昨日無事終了されたようです
そして放送も残すところ2ヶ月となってきました
今年も大変楽しませて貰ってるので、残りの話も楽しみなものです♪
次回も京都市考古資料館のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ






