前回からの続き(8月18日のこと)です
輪違屋を後にして、歩いて次の目的地へ向かいます
輪違屋を出て、花屋町通りを東へ行くと、すぐに島原の出入り口であった島原大門があります

住所・京都市下京区西新屋敷上之町
こちらは内側(島原側)から見たとこ
出るとこんな風になっていて、その当時の様子が伺えます♪

石碑

島原
島原は、江戸時代以来、公許の花街(かがい・歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。寛永18年(1641)、官命によって、島原の前身である六条三筋町から現在の朱雀野(しゅしゃかの)の地に移された。その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式地名は「西新屋敷」という。この島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。
しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆ き、現在では揚屋(今の料亭にあたる店)の 「角屋」、置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の 「輪違屋」、それに島原入口の「大門」、これ ら三箇所がわずかに往時の名残をとどめるものとなっている。
平成13年11月吉日
島原伝統保存会
嶋原のでぐちのやなぎをみて
なつかしきやなぎのまゆの春風に
なびくほかげやさとの夕ぐれ 蓮月尼
大田垣蓮月(歌人1791〜1875)
(原文のまま)
その前には島原名所旧跡案内図


大門の横にも駒札がありました

島原
豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641) 市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。 正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。
島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、 四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催し たとき、優れた傾城を「太夫」と呼んだことが 始まりとされている。 大夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。
また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。
京都市
(原文のまま)
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