前回からの続き(6月18日のこと)です
會津藩殉難者墓を後にして、その先へ進むと真如堂になります

真如堂にも以前伺っています
それはまた総集編を纏めたいと思っています
さすがに、紅葉が有名なだけに、新緑も鮮やかでした
そして入ったとこで、先にアップした紫陽花を見ました

萬霊堂

本堂横を進んで行きます


左手に阿弥陀如来さま

手前に三萬霊界塔

本堂

駒札

真如堂
正しくは真正極楽寺という天台宗の寺である。
平安中期の永観2(984)年、比叡山延暦寺の僧・戒算(かいさん)上人が延暦寺の常行堂にあった阿弥陀如来像を東三条院藤原詮子(せんし・一条天皇の母、藤原道長の姉)の離宮に移し、安置したのが始まりとされる。当初、この場所の東北に位置する元真如堂(換骨堂)の地にあったが、応仁の乱で荒廃した後、各地を転々とし、元禄6(1693)年に現在地への再建が開始された。
本堂(重要文化財)は江戸時代の享保2(1717)年の上棟で、京都市内の天台宗の寺院の本堂として最大規模を誇り、内部には、本尊の阿弥陀如来立像(重要文化財)が祀られている。本尊は「うなずきの弥陀」とも呼ばれ、毎年11月15日にのみ開帳される。
寺宝として、仏師運慶の発願によって書写された法華経六巻(国宝)をはじめ、応仁の乱などを描いた室町時代の真如堂縁起(重要文化財)、毎年3月に公開される大涅槃図など、多数を蔵する。
秋には、東山を借景にした「涅槃の庭」や三重塔、梵鐘に色付いたもみじが映え、紅葉の名所としても有名である。
京都市
(原文のまま)
扁額

菩提樹は仏教三聖木の一つで、この木の下でお釈迦さまは悟りを開かれたとされています。「菩提」は、「正しい悟りの智」を意味する「ボーディ」を音写したものです。
インドの菩提樹はクワ科ですが、真如堂の菩提樹はもとより、日本の寺院に植えられている菩提樹はシナノキ科ですが、両者は異なる種類です。
仏教が中国に伝わった時、インドの菩提樹は中国では育たなかったので、これに似た葉を持つ中国原産のこの木を「菩提樹」と呼ぶようにしたようです。日本へは、12世紀頃にもたらされました。
6月半ば、葉腋から散房状の集散花を下向けに出し、淡黄色の香りよい花を咲かせます。花期は短く、花をご覧になられた方は、きっとご縁があったのでしょう。
花後すぐに結実し、7〜8ミリに生長して、秋には茶色く熟します。数珠で一般に「菩提樹」と表示されているのは、この木の実ではありません。
シューベルトの名曲「リンデンバウム」を「菩提樹」と訳したのは、音楽家の堀内敬三氏ですが、リンデンバウムは日本の菩提樹と同じシナノキ科。銀座・並木通の街路樹が有名です。
(原文のまま)
本堂の前には少し前に見た沙羅もありました

解説

沙羅(夏椿)シャラノキ ツバキ科ナツツバキ属
沙羅樹は仏教三聖木の一つ。この木のもとでお釈迦さまは入寂されました。
お釈迦さまは80才で亡くなる数ヶ月前、「鷲の峰」での説法を終え、故郷を目指して最後の旅に出かけられました。その途中、長旅と病気で憔悴しきり、弟子のアーナンダに、「私のために二本並んだ沙羅の樹の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。私は疲れた。横になりたい」とおっしゃって最期の説法をされた後、入寂されました。2月15日のことでした。
日本でも死者を北枕にする風習がありますが、それはこの故事に由来するもので、当時インドの知識層の間では、北には楽園があると考えられていたためです。また、涅槃図にお釈迦さまを取り囲むようにして沙羅樹が二本ずつ東西南北という意味で八本描かれていもの、これに由来します。「沙羅双樹」の「双」は、「ふたつ」「ならぶ」という意味です。
インドの沙羅と日本で「沙羅」と呼んでいる木はまったく違う種類です。インドの沙羅は、フタバガキ科の常緑高木。インド北部原産で樹高30メートルに達する大きな木です。日本の沙羅(夏椿)はツバキ科で、木の高さは10〜20メートルと、インドの沙羅には及びません。インドの沙羅の花は地味で、小さく淡い白黄色の星形。夏椿とはまったく違います。
朝咲いては夕方には落ちる夏椿を「沙羅」に仕立てたのは、日本人の感性ならではかも知れません。
(原文のまま)
東林院の記事でも、夏椿のことを書いていましたが、こちらにも解説がありました
読んで頂くと、より分かって貰えるかもしれません😊
東林院では近くで見れなかったのでアップ


本堂の左側には京都映画誕生の碑

駒札

「京都・映画誕生の碑」
1895年フランスのリユミエール兄弟が発明した映画(シネマトグラフ)は、2年後の1897年に実業家稲畑勝太郎氏が日本に持ち込み、初めて上映されたのが、この土地京都の地で当初の映画は、既に存在する物を対象にした撮影で、今日でいう記録映像でした。
1908年、横田永之助の依頼をうけた牧野省三氏は、シネマトグラフを用いて歌舞伎の劇映画化に挑戦しました。京都に生まれた歌舞伎という伝統芸能を映像という新しい時代の科学技術と結びつけ、京都の映画を誕生させたものです。スクリーン上に動く映像は観る人々を魅了したものです。
以来、京都では多様にして大量の映画が創られることになりました。これを支えたのは、京都の伝統芸能の力、伝統工芸の力、歴史都市京都の景観等々、まさに、京都の文化力に培われたものであります。一世紀の時を経て京都の文化となりました。
京都で映画が創られて100年目という記念すべき年に当り、牧野省三氏が、第一作「本能寺合戦」を撮影した、この地「真正極楽寺 真如堂」境内にその足跡を深く刻み、益々の映画発展を願って「京都・映画誕生の碑」を建立するものであります。
2008年10月1日
「京都・映画100年宣言」プロジェクト推進協議会
(原文のまま)
その横におそらく弁天池













