前回からの続き(11月3日のこと)です
この日に合わせて行ったのは、前に近くまで行ったけど、外からしか見えなかった茶室・堪庵が公開されていると知ったのもありました

上記の通りすでに済んでいます(..)
古都館裏にある東の庭へ向かいます

階段手前の左手にある石塔・石仏群は方広寺の石垣の裏から出土したものだそうです
階段上がったところを左へ

以前行ったときは閉まっていたので、今回は無事入ることが出来ました♪

玄関

解説

茶室「堪庵」
この茶室は昭和33(1958)年に上田堪一郎氏より当館に寄贈された、江戸時代初期京都における公家文化の伝統を受け継いだ数奇屋造りの建物である。
母屋には八畳の広間を中心として正面に広縁、左脇に玄関、裏に水屋があり、庭に面して自然と一体をなす空間は、軽快な屋根の取り合わせや黒木の落ち着いた色調とともに、桂離宮(1620~)から学ばれたものであろう。
母屋右側にある小間が、奥の土間から上がる三畳の茶室「堪庵」であり、金森宗和(1584~1656)好みの大徳寺真珠庵「庭玉軒」を写したとされる。間取りは本勝手台目切、下座床は框を横たえた上段の構造となっねいる。
昭和41(1966)年に本館(明治古都館)南側から現在の位置に移築した際に、藁葺きと板葺きであった屋根を銅板葺きにあらため、併せて庭と水屋後方の付属屋を整え、茶会等の行事に利用している。
(原文のまま、一部年号補足)
玄関・内部

こちらにあったリーフレットなど

茶室を出て、隣(階段上がったとこ)にある東の庭です

こちらは墳墓が再現されているようです
解説

アップ

李朝墳墓表飾石造遺物 一括
本館蔵
山本あや氏寄贈
朝鮮半島において、墳墓の周辺を石彫品で飾ることは、新羅第三十三代聖徳王(702~736)の時に確立したといわれる。これは中国唐時代の墓制になったものだが、約百年近く行われたのち、この風習は一旦おとろえ、やがて高麗時代に復活し、李朝時代へとつづいた。
石人には文官と武官があって、参道の左右に向かいあって立てられ、時には童子が侍立することもあった。正面に石燈籠、その奥、墳丘に接して魂遊石と呼ばれる方台、墳丘のまわりに玉垣、その外側に虎、羊などがそれぞれ配された。また、左右に立てられた石幢は聖域の標識の意味を示している(図参照)。
この庭園の石造遺品は、李朝時代(1392~1910)の貴人たちの墳墓を飾っていたと思われるもので、広く各地から集められたもののようである。大正初年、大阪山本家の日本式庭園の要所に巧みに配置されていたが、昭和50(1975)年10月同園の廃滅に際し、石幢二対を柱に利用した亭(ちん)とともに同家より一括して当館へ寄贈され、その後も数点の遺品が追加して寄贈された。
古くより石彫の本質をよく理解し、また石を深く愛した民族の心を、これらの遺物から読みとることができよう。
内容 石人13躯、石羊2頭、石燈籠2基、石造六角基台1基、石造方台(魂遊石)8基、石幢2対

紅葉しかけなのがいい感じでした















