前回からの続きです
(令和元年9月28日のことになります)
再び木屋町へ戻り(笑)、六角通りに架かる山崎橋を渡ったとこに彦根藩邸跡の石碑

住所・京都市中京区木屋町通三条下る二筋目(山崎橋西詰)
彦根藩と言えば、井伊の赤備えで有名ですが、幕末だとやはり井伊直弼(13代藩主)だと思います
参照にしてるいしぶみデータベースでも、その井伊直弼について書かれていました
井伊直弼
1815~1860年
安政5(1858)年に大老となる
前の記事でも書いた様に、勅許を待たず日米修交通商条約をはじめとする安政五ヵ国条約に調印
将軍後継問題での一橋派や尊王攘夷派志士の非難活動を押さえるため安政の大獄を起こす
これらのことにより桜田門外の変で暗殺される
(いしぶみデータベース参照)
井伊直弼はなんと十四男坊だったんですΣ( ゚Д゚)
殿様に子供が多いことは珍しくないですが、ほんとなら直弼は藩主にさえなれなかったはずなのに、跡を継いだ兄さんの子供が亡くなったため、お鉢が回ってくるというラッキーさでした
ただ結果だけから言うと、暗殺されたのですからラッキーばかりとは言えませんが😅
ちなみに、彦根藩は桜田門外の変のあと、10万石を削られたということです
それでも廃藩置県までは存続しました
山崎橋から少し南下すると左手にまた石碑があります

住所・中京区木屋町通六角下る東側(高瀬川山崎橋東詰下る)






Σ( ゚Д゚)
上に解説板あったの見逃してる!(>_<)
なのでその解説板をネットで探したので、その解説をかいつまんで載せておきます
坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)は、青蓮院宮に仕える医師楢崎将作・貞の長女でした。
京都柳馬場三条下ル東側に住んでいましたが、文久2(1862)年6月20日、父の死去
このため母・妹・弟をふくむ6人の遺族は困窮し、木屋町、もしくは四条うら通りの借家に移住
こののち一家は離散
お龍は単身七条新地の扇岩なる店に入る
母と妹・君江は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛(五郎兵衛)隠居所の土佐亡命志士の居所に住み込みで働く
その縁で龍馬とお龍は出会うことになったということです
その住居跡の正確な位置は不明なため、木屋町通に建碑されたということのようです
もう1つの中井弘という人物のことですが
龍馬やその終焉地の主人近江屋新助とも交流があり、滋賀県知事や京都府知事を歴任された人物で、幕末期に木屋町の近江屋喜一郎の2階に寄宿されていたそうです
そこから南下すると六之舟入址

住所・中京区木屋町通三条下る西側
更に南下すると七之舟入址

住所・中京区木屋町通蛸薬師橋上る西側
ここは少し高瀬舟のことなどが紹介されたパネルもありました

七之舟入址を蛸薬師通りの橋を挟んであるのが土佐藩邸跡の石碑

住所・中京区木屋町通蛸薬師西南角
駒札

高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元立誠(りっせい)小学校(現在は立誠ガーデンヒューリック京都)の辺りには、江戸時代、土佐藩の藩邸があった
当時は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架かっていた
藩邸が置かれたのは元禄3(1690)年
この西側に鎮座する土佐稲荷・岬神社は、もと藩邸に鎮守社として祀られたもので、同社に参拝する町人のために藩邸内の通り抜けが許されていたということです
昔の藩邸は現在で言うとこの大使館のように治外法権だったので、そこを通り抜けが許されたというのは土佐藩太っ腹😲と感心しました😆
(駒札の解説抜粋)
土佐藩邸跡の石碑から七之舟入址側を見たとこ

Σ( ゚Д゚)
橋の向こうに駒札あったのを見逃してました(>_<)
これは七之舟入址の解説の駒札のようです
そして土佐稲荷も行き忘れ( ̄▽ ̄;)
これはまた再訪したいと思ってます
木屋町通り散策、もうしばらく続きます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ
