前回の中京区散策の続きです
(令和元年9月28日のことになります)

今回は(も)石碑などの解説文が多いため長くなります😓
なので気になる画像のものだけ読んで頂ければどうか?と思います(..)

御池通りをそのまま西へ向かいます
すると間之町通りとの角にあるのは在原業平邸址
住所・中京区間之町通御池下る東側
在原業平
825~880年
平安初期の歌人
六歌仙の一人父は平城天皇の皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王
2歳の時、在原を名乗り臣籍に降った
伊勢物語の主人公のモデルとされる
(嵐山文華館にて撮影)

御池通りをそのまま烏丸通りまで行き、今度は下っていきます
すると姉小路のとこにあるのは新風館という商業施設の建物
この時も工事をしかけていましたが、この後本格的な工事に入り、今はリニューアルして名前はそのままでホテルなんかも入ったということです

建物の烏丸通り沿いにプレートがありました
近畿電気通信局管内自動式電話交換創始ゆかりの地
 昭和3(1928)年、近畿における自動式電話交換が京阪神地区の6局で開始されました
 この工事は、大阪・神戸はH形方式、京都はA形方式で大阪逓信局工務課を中心として関係部門職員の努力により同時期に完成させた当時としては画期的な大工事てありました
 近畿電気通信局管内の自動化完了の年にあたり、自動式電話交換開始50年を記念して設置します。
 昭和3年3月4日 大阪中央電話局天王寺分局
         大阪中央電話局 堀川分局
  同 年4月1日 神戸中央電話局 湊川分局
  同 年4月8日 京都中央電話局
  同 年4月15日 天下茶屋郵便局 電話分室
          住吉郵便局   電話分室
 昭和53(1978)年11月
(年数書き足し以外、原文のまま)
リニューアルされてから行ってませんので、同じとこにプレートがあるかは定かではありませんσ( ̄∇ ̄;)

烏丸通りを更に下って行くと、三条通りと交わる交差点の右手にレンガ造りの建物が見えてきます
みずほ銀行京都支店(旧第一銀行京都支店)
建築年(旧建物) 明治39(1906)年
設計者(旧建物) 辰野・葛西建築事務所
こちらの建物は平成15(2003)年に鉄筋コンクリート造で建て替えられています
外観はかつてのデザインが再現されました
その旧の建物の設計をしたのが辰野金吾でした
そしてこちらは三條南殿の遺址
 この建物の敷地には、昔三條南殿という邸宅があった。三條南殿は、三條、烏丸、六角、室町の四つの通に画された方121メートルの邸宅であった。初め左大臣藤原実能(さねよし)の邸宅であったこの三條南殿は、長承2(1133)年ごろ実能によって鳥羽上皇に献上され、上皇の御所となった。これがいつ鳥羽上皇の皇女の上西門院(じょうさいもんいん・統子内親王)の御所になったかは不明であるが、恐らくそれは仁平元(1151)年のことであったらしい。それ以来、三條南殿は文治5(1189)年7月に崩御されるまで、上西門院の御所となっていた。特記されるのは、保元3(1158)年から翌平治元年にかけて、若き日の源頼朝が上西門院の官人としてこの御所で勤務していたことである。その後、すなわち建久8(1198)年三條南殿は後鳥羽天皇の生母の七條院(藤原殖子)の御所となり、安貞2(1228)年に崩御されるまで女院はここに住んでおられた。平安時代後期から鎌倉時代中期まで勢威ある女院の御所であったため、歴代の天皇はしばしば三條南殿に行幸された。また女院の女房には才媛が多かったため、この御所は和歌文化の有力な中心の一つをなしていたのである。
(原文のまま)

交差点のとこを戻ると、こんな石碑がありました
京都市道路元標
住所・中京区三条通烏丸東南角
大正9(1920)年に施行された旧道路法と同法の施行令にもとづき、当時の市町村に道路元標が設置された
市役所や町村役場の前など中心部を選んで建てられ、道路の起点表示の原点となったり、市町村間の距離表示の原点になった
この道路元標はもともと三条大橋にあって、のちに現在地に移されたという説があるということです
(いしぶみデータベース参照)

三条通りを今度は東へ向かって歩いていきます
すると左手に駒札
教諭所(宣教館)跡

 幕末、京都の庶民教育機関であった教諭所は、もと、皆川淇園(みながわきえん)門下の北大路梅荘(ばいそう)が計画し、天保4(1833)年許可されて室町丸太町下るの町屋に開校した。数年後衰退し中絶したが、天保8(1837)年の飢饉に経済活動に従事した心学講社(しんがくこうしゃ)の援助を得て翌9(1838)年7月東洞院三条下る住心院地内に新築、開講された。
 教諭所の教育運動の特徴は経書講釈や心学道話の授業のほかに飢民救助などの社会事業に積極的に参加したこととされている。
 元治元(1864)年7月の蛤御門の戦いで焼失したが、翌2(1865)年2月、東洞院三条西北角の当地に再建された。明治2(1869)年2月、下京四番組小学校となり、教諭所は消滅した。
(原文ほぼそのまま)

その先には京都電信電話発祥の地
東洞院通りと交わるとこにあります
そしてここの反対側には中京郵便局があるので、そちらにも寄ってます
それは次回にニヤリ

その東洞院通りを上がっていくと、右手にこちらの記念碑
「翔びたとう初音」記念碑
 「翔びたとう初音」とは、京都市立初音中学校が平成5(1993)年3月に閉校した際の記念事業の表題である。百二十四年の歴史に幕を閉じるは断腸の思いであったが、この機を新たな出発と捉え、比翼を伸ばす発展を祈念した言葉である。
 平安時代後期、以仁王高倉宮御所はこの地にあった。室町時代に建てられた曇華院は栄華盛衰の末、明治4(1871)年嵯峨に移り、境内の「初音の森」が「初音」の名称の起こりである。初音校は明治2(1869)年京都の町衆の力により六十四のは番組小学校の一つとして柊町にて開校し、明治26(1893)年、この地に移転する。初音校は明治天皇御臨幸大正天皇侍従御差遺等の歴史のある小学校であったが、昭和18(1943)年初音国民学校高等科(女子)設置に伴い学童の通学は、南は日影校へ北は竹間校へと分かれた。昭和22(1947)年初音中学校となるも生徒減少により冒頭の如く閉校し隣接中学へ統合、その後京都御池中学校に継承され今日に到る。
(年号のみ補てん・原文はそのまま)

更にその先の右手にこちらの石碑
高倉宮趾明治天皇行幸所上京第二十九組小学校
住所・中京区東洞院通姉小路下る
こちらは上の記念碑がある少し先にあった石碑です
高倉宮のことは次回にも出るので、それに譲るとして、明治天皇行幸のことには触れておきたいと思います
明治10(1877)年、明治天皇の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化
京都には1月28日~2月6日、2月16日~7月28日に滞在
その折5月には下京十八組(修徳)小学校、6月28日には上京二十九組(初音)小学校・下京二十四組(尚徳)小学校の各小学校に上京下京の生徒を集めて授業を視察
この石碑は上京二十九組(初音)小学校の跡を示すもの
(いしぶみデータベース参照)

文字の多かった記事にお付き合い頂きありがとうございました照れ
中京区散策続きます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ