久しぶりに宇治散策へ戻ります( ̄∇ ̄*)ゞ

京阪の宇治駅のずっと先へ行くと、宇治上神社に祀られている菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のお墓があります
その参道

菟道稚郎子は応神天皇の皇子
兄は仁徳天皇
日本書紀では、菟道稚郎子が両兄に先んじて立太子されましたが、大鷦鷯尊(仁徳天皇)にこれを譲ろうとしました
その間に長兄・大山守命が挙兵し、菟道宮にいた菟道稚郎子を攻めましたが、大鷦鷯尊はそのことを皇子に知らせ、譲りを受けない意志を示したそうです
大鷦鷯尊の心を変えがたいことを悟った菟道稚郎子は入水し、自らの命を絶ってその決意を貫いたそうです
そして翌年に大鷦鷯尊は天皇に即位したということです
(京都府の歴史散歩参照)

参道を行くと少し広い場所があり


再び参道があります


応神天皇皇太子菟道稚郎子尊 宇治墓




その横には何とか宮跡という石碑があるのですが、工事中の加減で近づけず( ´~`)


その前には史跡 宇治川太閤堤跡

があるようなんですが、こちらも工事をしているようで入れそうにありませんでした
( ̄▽ ̄;)

これかなぁと撮った草ボーボーのこんもりしたもの


菟道稚郎子参道入り口のとこから京阪線に沿って歩くと、今度は宇治墓があります

かなり小さいですが(^^;
宇治墓陪家

Googleマップでは伝賀陽豊年(でんかやのとよとし)墓となってます
その賀陽豊年のことをウィキペディアから貼っておきます

文章博士を経て、延暦16年(797年東宮学士となり、皇太子・安殿親王(後の平城天皇)の教授に当たる(この時の位階は外従五位下)。平城朝では重用されて従四位下式部大輔にまで昇進するが、天皇の寵愛を受けた藤原薬子が権勢を振るい、優れた人物が排斥されるようになっても、平素と変わらない様子で成り行きに任せ、沈黙を守ったという[2]。のち、平城天皇が譲位大同4年12月(810年1月)に平城京へ移った際にもこれに従わず、平安京に残った[2]。大同5年(810年)9月に発生した薬子の変にも関わっていないが、変後に式部大輔の官職を退いている[2]。まもなく才能を惜しんだ嵯峨天皇の要請で播磨守に任ぜられたが、弘仁4年(813年)に病のため離任し、以後宇治の別荘で余生を送った[2]

宇治で病床に伏す中で、当地の古老から仁徳天皇菟道稚郎子が、父・応神天皇の死後にお互いに皇位を譲り合った話を聞いて感動し、左大臣藤原園人に請うて仁徳天皇の「地下(あの世で)の臣」となった[2]。平城上皇と嵯峨天皇との対立を重ね合わせての思いがあったか[3]

弘仁6年(815年)6月27日卒去。享年65。最終官位は播磨守従四位下。卒去にあたり、嵯峨天皇により仁徳天皇陵の近くに葬ることを許された上で、正四位下贈位を受けて国華(国の名誉)として崇敬された[2]

この文章を読むと、こちらが賀陽豊年の墓であってもおかしくないし、間違いないのかなぁと思いました

また宇治市内へ戻っていきます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ