




その横には何とか宮跡という石碑があるのですが、工事中の加減で近づけず( ´~`)

その前には史跡 宇治川太閤堤跡

があるようなんですが、こちらも工事をしているようで入れそうにありませんでした
文章博士を経て、延暦16年(797年)東宮学士となり、皇太子・安殿親王(後の平城天皇)の教授に当たる(この時の位階は外従五位下)。平城朝では重用されて従四位下・式部大輔にまで昇進するが、天皇の寵愛を受けた藤原薬子が権勢を振るい、優れた人物が排斥されるようになっても、平素と変わらない様子で成り行きに任せ、沈黙を守ったという[2]。のち、平城天皇が譲位し大同4年12月(810年1月)に平城京へ移った際にもこれに従わず、平安京に残った[2]。大同5年(810年)9月に発生した薬子の変にも関わっていないが、変後に式部大輔の官職を退いている[2]。まもなく才能を惜しんだ嵯峨天皇の要請で播磨守に任ぜられたが、弘仁4年(813年)に病のため離任し、以後宇治の別荘で余生を送った[2]。
宇治で病床に伏す中で、当地の古老から仁徳天皇と菟道稚郎子が、父・応神天皇の死後にお互いに皇位を譲り合った話を聞いて感動し、左大臣・藤原園人に請うて仁徳天皇の「地下(あの世で)の臣」となった[2]。平城上皇と嵯峨天皇との対立を重ね合わせての思いがあったか[3]。
弘仁6年(815年)6月27日卒去。享年65。最終官位は播磨守従四位下。卒去にあたり、嵯峨天皇により仁徳天皇陵の近くに葬ることを許された上で、正四位下の贈位を受けて国華(国の名誉)として崇敬された[2]。
この文章を読むと、こちらが賀陽豊年の墓であってもおかしくないし、間違いないのかなぁと思いました



