今回は細川ガラシャの捕捉のようなものです(^_^ゞ

勝龍寺城公園の記事でも書いてましたが、玉子明智光秀の娘です
天正6(1578)年、細川幽斎の息子・忠興(ただおき)と結婚します

この忠興っていうのが、文武兼ね備えた武将ではあったのですが、スゴい短気で残忍だったそうです
それに玉子にぞっこんで、玉子の御殿に近づいた下男を切ったこともあるそうです
てか、そんな話が枚挙にいとまが無い(^^;


そんな話の一つに、忠興が持ってた刀で通称・歌仙兼定(かせんかねさだ・重文)という刀があります
歌仙って言うから優美な名前のようですが、この名前の逸話がまたスゴい!
肥後八代に隠居してた忠興が、後継者の忠利の近臣達の働きぶりの悪さに腹を立て、その近臣を八代城に呼び寄せて次々と兼定で首をはねたんだそうです
その家臣の数が実に36人!ガーン
これに和歌の名人「三十六歌仙」をかけて「歌仙兼定」というようになったそうです
ただ先にも書いたように、残忍なだけでなく、関ヶ原でも活躍したため大大名になってるし、利休七哲の一人にも数えられています
(日本刀の世界参照)

そんな玉子に過酷な運命が待ち受けてました
父・光秀の謀反です!
天正10(1582)年、本能寺の変が起こり謀反人の娘となったため、丹後味戸野(みどの)に幽閉されます
これが2年
秀吉に許され、宮津の忠興の元へ帰ります
この丹後にいたことから現在では丹後七姫の1人として丹後では宣伝されてます
( *´艸`)
味戸野はまだ行ってませんが、宮津でも銅像は見ました(←押してもらうとリンクします)

天正15(1587)年、洗礼を受け、ガラシャとなる
この時も忠興は怒り狂ったそうです
ガラシャを侍女の清原マリアの導きによって洗礼を受けるのですが、その侍女たちの鼻を削いでしまったというポーン

そんなガラシャの最後も苛烈なものでした
関ヶ原の戦いの前に、大阪城下にいる大名の妻子を人質に取るため、石田三成の兵に囲まれたんです
すると家来に命じ、自分を切らせます
キリシタンは自害禁止ですから
これがあったので、三成は大名から人質を取ることを諦めたそうです
もし人質が取られてたら、裏切る大名なんかも変わったかもしれません
そういう意味では、この出来事も一つとターニングポイントと言えるかもしれませんね
(週刊 戦国王参照)

ちなみにその細川家の子孫がご存知の方も多いかと思いますが、細川元首相です
子孫が天下を取ったというとこでしょうか⁉
では、またぁ~(* ´ ▽ ` *)ノ