今日も
「宇宙のエレガンス」へ
お越しくださり
ありがとうございます💗
心からの
感謝を込めて
記事を発信させて
いただきます。
宇宙を創造し
万物を生み出した
究極のエネルギー、
それを
究極の神と呼んでも
絶対無限の意識と言っても
いいですし
…
呼び方は色々あるかと思いますが
要するに
そういう根源のエネルギーから
私たち人間も
生み出されています
(と私は思います)。
私たちは
そういう根源のエネルギーと
常に繋がっていて
私たちの中にも
同じ
根源のエネルギーが流れていて
本質は
全部同じもので
できていると思います。
そういう意味で
ここは
神(絶対無限の意識)の創造した創造物で
溢れる
神(絶対無限の意識)の楽園です。
では
どうしてそんな楽園で
戦争や略奪や殺人や
裏切りや貧困や…
さまざまな苦しみが
起こるのでしょうか?
それは
私たちに
我(エゴや個人意識)が
たくさんあるからだと
思います。
私たちの本質は
愛の光であり
絶対無限の、神の意識なのですが
「我」がたくさん混入していて
自分(個人意識)への執着が
あるからだと思うのです。
自分を大切に思うあまり(自己執着)
自分を必死に守ろうとして(自己防衛)
自分の安全と繁栄を強く願うことから
(自己保存)
自分と自分以外の区別が
強くなって
(個人意識)
本来の、絶対無限の意識であり
愛の光のエネルギーが
「我」に覆い隠されてしまい
そうした「本質のエネルギー」だけで
生きられなく
なっているからだろうと
思います。
殺人や戦争に限らず
もっと身近な日常の中で
私たち自身も
私たちの「本質のエネルギー」が
「我」にまみれて
「我」に覆われて
「本質のエネルギー」を十分に
表現できない
状態になっていると
思うのです。
実際に戦争をしかけたり
殺人をしないまでも
心の中で
戦争や殺人を起こしているかも
しれません。
相手の言動に腹が立ち
ものすごく相手のことを憎んだり
否定したり
批判したり
見下したり
相手の気持ちを無視ししたり
相手のことを
理解しようとせずに決めつけたり…
…
知らず知らずのうちに
私たちの心の中でも
戦争や殺人が
起きているかもしれません。
私たちの内側にあるものが
誰かを通して
戦争や殺人として
外側に大きく表現されているだけ
なのかも
しれません。
そういう魂の濁り、
「我」を
心の内側に抱えていると
どこへ行っても
誰と一緒に過ごしても
何をしても
そういう心のガラクタが
刺激されて
反応し
私たちに嫌な気分を
体験させます。
外側の「何が」悪い、
「誰が」酷い、
「こういう状況だから」ストレスが溜まる
のではなくて
自分の中の「我」が
反応して
辛くなったり
腹が立ったり
許せなくなったり
要するにストレスとなって
いる可能性があります。
自分の「我」はいつも自分とセットなので
どこへ行っても
誰と会っても
何をしても切り離せません。
私たちが起きたことに意味を付ける時
(人生ドラマを
プロデュースする時)
この「我」が影響していることが
多々あるのだと思います。
自分の握りしめている「我」が
強ければ強いほど
多ければ多いほど
「我」が刺激されて出来たドラマ
「我」の影響が入ったストリーを
体験することになるのでしょう。
結局のところ
自分が握りしめている「我」に
気が付いて
それを
手放していかないと
ずーっと「我」の色眼鏡を
通して
見えた人間ドラマを
体験していくことになるのだと
思います。
私たちの本質は
絶対無限の意識であり
神なのだけれど
そのエネルギーに
「我」が混濁しているので
「我」をたくさん握りしめている
限り
体験するドラマは「我」まみれ
なものとなるのでしょう。
その「我」まみれのドラマを
体験しながら
私たちは
ドラマに埋没し
混乱することもできますし
自分の握りしめている「我」に
気が付いて
気が付くたびに手放していく
ことも
できるのではないでしょうか。
自分の周りを覆っている「我」に
気が付くのも
気が付いて
手放そうと思うことも
人それぞれの
タイミングとペースでいいのだと
思いますが
大きな視点で見てみると
私たちは何回も輪廻を
繰り返し
自分で設定し
創造する人間ドラマを
体験しながら
少しずつ
少しずつ
自分の握りしめている「我」に
気が付いて
「我」をそぎ落とし、
手放していっているのではないで
しょうか。
自分自身の何たるか、
絶対無限の意識であること、
本質は愛の光であることに
気が付けば気が付くほど
自分の握りしめている「我」にも
気が付ける。
あるいは
自分自身の「我」に注意が向くようになると
本当の自分は
この肉体でも思考でもなく
絶対無限の意識であり
根源のエネルギーであることにも
気が付いていく。
そういう車の両輪
みたいなものかも知れませんね。
自分の「我」に気が付いたり
気が付いて「我」を
手放す機会は
特別な出来事やイベントに
限らず
日々のいつもの
日常の中に
たくさんあって
360度どの方向にも
すべてのことが、
人間関係が、
状況が、
自分の「我」に気が付く機会(チャンス)と
なっているように
思います。
自分自身が
その時、気が付くかどうかは
自分次第なのだと思います。
自分が
キャラクターになりきって人生ドラマに翻弄
されずに
観察者として
俯瞰した視点を持っていたら
「あれ?
これって、本当にそういうことなの?」と
プロデューサーのつけた意味づけに
疑問符が
持てます。
「どうして、この状況を
被害に遭ったと解釈するの?」
「どうしてここで
キャラクターはイライラするの?}
「どうしてここで
心がざわつくの?」と。
観察者である自分が立ち止まって
人間ドラマの内容を深堀し
検討することが
できたら
そこに「我」が関与したかも
しれないことに
気が付いていけます。
「我」に気が付いて
その「我」にしっかり光を
当ててあげて
自分に必要のないものだと
確認したのなら
愛の光で
その「我」を優しく包んで
あげるといいですね。
「大丈夫よ。
本当の私は愛の光なんだから
すべてうまく行くんだよ。
私も愛の光、あの人も
愛の光。
誰もが同じ愛の光
なのだから
大丈夫。」と
その時の自分の想いを
受け入れ、分かってあげましょう。
そうすると
心に
静かで温かな安心感が
広がります。
そして
愛の光で包んだ「我」を
天に還してあげましょう。
「我」の落ち着く場所へ
還ってねと。
今までずっと一緒だったその「我」に
別れを告げて見送りましょう。
そうやって
私たちは
すべての起こりから、
事象から
自分自身が握りしめている
「我」に気が付き
それを手放していくことも
できる
人間ドラマを今、経験して
いるのだろうと思います。
このお話が
今、必要な人のもとへ
届きますように
愛するあなたへ
いつも
本当にありがとう



