形にしてから
中身。
中身だけで
形にすること
は出来ない。
まずは形にすることが先にあり
それの、中身
というのが
よく言われている中身
というもの。
卵🥚と同じで
まず中身があるわけではない
構造、プラットフォーム
というものが
人間社会にはまずある。
中身とは
質のことだが
「質から作る」は
ない。
何の質か?
の何の?の部分が
まずはないと
その質、その中身
という話にはならないんですよね。
だから
「中身が大切だ」
という人は
すでに外側が
明確にあるものについて
それありきで
その質の話をしている
ということになる。
抽象
というものも
最初から
抽象という状態が
存在しているわけではない。
人が理解できる抽象は
元々形があったものから
崩されたもののことを
抽象といっている
のだと思う。
なのでますば
外側をしっかり作ってからしか
抽象も中身もはじまらない。
例えば
世界観
構成振付
セリフ覚えなど
人が作ったその形を
ある程度作っていないうちから
中身にいくこと(崩すなど)
はできない
表現ならば
まず元となる外側を
理解できること
作れること
そこからしか
脳のキャパシティを
中身(身体感覚など)に
注げない。
歌舞伎俳優の日本舞踊が
余計な力が抜けていて
上手く見えるのは
振付が身体に入って
余裕でいられるくらい
場数(月に25日の出演)があるから
中身にいける(身体感覚に任せられる)
のだと思う。
結局
外側が明らかになっているから
その余剰分で
中身までいける
守破離。
中身を掘りたいなら
何かをしながらでも
勝手にそうなるくらい
形にしていないといけない。
線路ありきの
電車(身体表現の質)
電車(表現)の質うんぬんの前に
まずは線路がしっかりないとね
みたいなこと。
それがないと電車(身体)は
どこに行ったらいいかすら
わからない。
電車(質)の存在意義すら無くなる。
だから
質の高いものの中身とは
身体が勝手にそうなるくらい
やり慣れていて
余裕がある
という状態
という明確な「構造」が
セットになっている
ということ。
中身とは、
精度の高い外枠ありきで
遊べる範囲のこと
(感じとれてるものが多いこと)
という言い換えもできる。
動き方を覚えたり
セリフをいれたり
形にしたり
何かを理解したり
崩したりも
すべて形であり
構造です。
その元となる力は
未來を形にする
人間独特の
イメージ力なんだが
それ自体がすでに
「構造主義」の中にいる
ということなんですよね。
構造ありきで
社会や作品や
人すら
成り立っている。
でないと
文化や作品も
残っていないし
形になっていない。
人は
生きているだけで
「構造」を使う生き物。
そして人にとっては
世界(抽象)も
構造(例えば言語化)を
通してしか
出会えないもの
なのかもしれない。
知らないものは
知っていることを通してしか
知っていくことができない
のと同じ。
概知がないと
無知にもなれない
構造の中にいないものはすべて
それ以外
なので捉えること自体が難しい。
しかし
「それ」を明確に作ることで
それ以外、がみえてくる。
最初から
抽象、応用、崩す、無知
というものがないように
中身という
それ自体は
最初から無い
ある程度形になっているものに対して
使われる言葉なのだなと
最近理解した。
まず何かの形にする
という構造にすることが
本来の世界から離れていくこと
なのかもしれないが
抽象景色(中身、世界)
をみるには
その人工物を通すしかない
世界を知るにも
構造(理解)を作った上で
そこから見るしかない
人間は。
だったら
外側の形、構造は
ちゃんと作ってないと
その先は観えてこないよな
