「許し」は、私にとって長年のテーマ。
過去形ではなく、今も続いているテーマでありますが。
もともと、「許す」ことが必要であるのは
自分の心の中に、怒りや罪悪感があるからですよね。
あの人は、私を全然、認めてくれない!
私は騙された!
なんでこんなに不当に扱われなければならないの!
あの時、こうすればよかった!
なんでもっとちゃんと考えなかったんだろう。
なんで、こうしてあげられなかったんだろう。
なんであの人にあんなことをしてしまったんだろう。
なんであんなことを言ってしまったんだろう。
などなど、様々な状況で
被害者意識に陥る(怒り)
あるいは、加害者意識に陥る(罪悪感)
あるいは、時に、それが両方入り混じっていることもある。
そして、自分がかかえている
怒りや罪悪感の元を辿ると、そこには「怖れ」があるのです。
認められないことへの怖れ
批判されることへの怖れ
傷つくことへの怖れ
傷つけてしまうことへの怖れ
自分は充分でないのではないかという怖れ
私もそんな葛藤がありましたし、今もあります。
ですが、許しと癒しを体験することになった
先日起きた小さなミラクルをシェアしたいと思います。
私自身の心の整理と共に
ほんの少しでも、どなたかの心の解放につながりますように・・・
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「自分の感覚、自分の力を信じることの大切さ」
正直言って、一番、大きかったのは、子どもを傷つけてしまった、という後悔。
私は息子が15歳、娘が12歳の時に離婚しました。
子どもたちがカレッジを出るまでの養育費は元夫が出す代わりに
家と財産は分けず、彼がすべて取るということで
私は所持金5万円ほどで家を出ました。
アリゾナ州では、子どもたちを年齢別でどのように扱うか、
というワークショップを受けないと離婚できません。
それによると、ティーンエイジャーの子どもたちは
親の間を行ったり来たりするより
一箇所、ベースがあることが大事だ、ということだったので、
元夫にいいくるめられた、という感じではありましたが、
私もそれに同意したのです。
そして、これからは、君は、自分の才能を活かして
夢を叶える姿を子どもたちに見せることが、親としての君の役目だ、
子どもたちとはいつでも好きなだけ一緒にいていいし、
君は自由にしていいんだ、
と元夫に言われ、私もそれに乗じて
多感な時期の子どもたちを置き去りにしてしまったのです。
今からすると、ひどいことをしたと思います。
私も元夫も再婚し、思春期の子どもたちを父親の元に置いて、
私は日本とセドナを往復する生活。
でも、元夫の再婚相手と子どもたちは相性があわず、
いわゆるニグレクト状態になってしまったため、
私が娘を引き取ることにしたのです。
息子は高校二年生でしたが、高校の先生が息子を引き取ってくださり
先生の家から高校に通わせてもらうことになりました。
私が娘を引き取るし、息子へも仕送りをするから、
約束通りに養育費は払ってください、
と元夫に言うと、そんなに金がほしいなら、
お前の父親から死ぬ前に財産を分けてもらえ、と言われ
結果として、親権と養育費をめぐる泥沼の裁判になり、
それが4年間も続き、養育費よりも、裁判費用がものすごい金額になってしまった。
正直言って、私の父が私よりも怒り、
父が裁判費用を出すから元夫を訴えろ、ということで始まった裁判でした。
そのころ、私はほとんど収入もなく
自分の力を信じることができず、
自分の感覚や感情に従うより、父のアドバイスに従ってしまったのです。
何度も途中でやめたい、と言ったものの、
こういうことは最後まで切りをつけなければダメだ、という父に逆らえず、
どんどん裁判はネガティヴな方向に向かい、元夫との関係もますます泥沼に。
精神的にも、金銭的にも、消耗が激しい虚しい裁判でした。
それによって、元夫と子どもたちの関係も崩れてしまった。
裁判は私が勝訴したものの、全く嬉しくもなく、
自分も、相手も、子どもたちも傷つけてしまった、という感覚しかなかった。
喜んでいたのは、父と弁護士だけだったと思います。
自分の感覚、自分の力を信じられないと、
結果として、怒りや罪悪感を創り出してしまう、
という大きな学びでした。
もしも、私がその時、自分の力を信じ、
なんとかなる、と思えたら、元夫を訴えることもなかったでしょう。
犠牲者意識(怒り、悲しみ)も
加害者意識(罪悪感)も
どちらも紙一重で、
自分の感覚、自分の力を信じられず、自分の価値を認められない
という「怖れ」が元になっているのです。
自分を信じられないと、人から言われることに振り回されます。
その結果、どんどん、自分の感覚と違った方向へひっぱられてしまう。
そして、ますます泥沼状態に陥ってしまう。
そして、自己嫌悪に陥ったり、自分を責めたりしてしまう。
他人を許すことより難しいのは、自分を許すことです。
そんな状態から抜け出すにはどうしたらいいのでしょうか?
「後の後悔、先に立たず。失敗は成功の元」
〜経験から学んで前に進む
私たちは、誰でも完璧ではありません。
誰でも過ちを犯すこともあるし、失敗することもあります。
過去を振り返り、反省することは大切です。
でも、それも度を越すと「後悔」する気持ちに振り回され、
「今」を生きることができなくなります。
「後悔」はつまり「過去」に生きる状態です。
誰も後悔したいために、その体験を選んだわけではありません。
「後悔、先に立たず」
と言いますが、それもそのことを経験した結果です。
自分を許せない時、想い出してほしいことがあります。
あなたが自分を許せない、と感じているのは、
あなたが良心を持っている人間だからなのだ、ということ。
ある有名なサイキックの友人がこう言いました。
「連続殺人の犯人は、カルマを作らない。
彼らには罪悪感がないからだ。
カルマが生まれるのは、その人が罪悪感を持ったときだけなんだ」
私ははじめ、彼の言葉にショックを受けましたが、
なるほど、とも思いました。
自分を許せないとき、私たちは自分が悪人のような気持ちになります。
でも、本当の悪人は、自分を悪人だと思わない。(^^;
つまり、自分を悪人のように感じるのは
善人である証拠なのだ、ということなのです。
それに気づくことは、ひとつの救いではないでしょうか?
私たちは、スピリチュアルなことを体験するために生まれてきた人間なのではなく
人間を体験しにきたスピリチュアルな存在なのです。
肉体を持っていなければ、体験できないことを
辛いことも、悲しいことも、悔しいことも含めて
味わいにきたのです。
起きてしまったことを変えることはできません。
しかし、起きてしまったことへの見方を変えることはできます。
つまり、経験したことへの味わい方を変えるのです。
「怖れ」をベースにした見方を
「愛」をベースにした見方にするのです。
そのとき、私たちは後悔したような出来事を
学びに変え、前に進んで行かれるようになるでしょう。
「究極にあるのは 愛 と 怖れ」
私たちは、光の中に立つことも、闇の中にいることもできます。
光と闇は、同時に同等に存在し、
どちらが良くて、どちらが悪いわけでもありません。
愛と怖れも同じです。
相手に怒りを感じるのは、
そこにどんな怖れが潜んでいるからなんだろう?
と観察してみます。
そこには、相手から見捨てられる、という怖れがあるのかもしれないし、
自分の価値を認めてもらえない、という怖れがあるかもしれないし、
不当に扱われている、という怖れがあるかもしれない。
でも、相手の態度というのは、自分が自分をどう扱っているかの反映です。
自分が自分を怖れをベースにした扱いをしている、ということなのです。
今度は、それを愛をベースにした見方に変えてみます。
誰かが私を見捨てたとしても、私は私を見捨てない。
自分の価値を認めることは、与えられている命への感謝。
私はそのままの私でいいんだ。
自分を許せずに、罪悪感を持っているとしたら、
それは、自分が良心をもった善人であることを否定しているからです。
それも怖れをベースにした見方です。
愛をベースにすれば、自分への見方も変わります。
自分の優しさを自分自身にも向けてあげよう。
私はそのままの私で許されている。
私は自分の(失敗や過ちと感じている)経験から
こんなことを学ばせてもらったんだ、ありがとう。
そう感じることができたとき、そこに感謝が生まれ、
感謝する気持ちが生じたとき、赦しが生まれ、
赦しが生まれたとき、そこに癒しが起こる。
癒しは求めるものではなく、赦しと感謝に至ったときに
結果として起こるものなのです。
そして、その結果、ミラクルが起きたのです。
(「祈りの力」につづく)
ご拝読、ありがとうございました。


