セドナ周辺には、数多くの遺跡が残っている。
遺跡に立つと、古の人々への畏敬の念とともに、
いわれのない懐かしみを感じるのはなぜだろう。
それは、ここで暮らしていた人々が、
おそらくは、生きていくのが過酷な環境であったとしても、
家族がすべてを分かち合い、平和に暮らしていたのであろうという、
ここら辺の遺跡からは、戦いの痕が見つかっていない。
アメリカ原住民の人々には、土地を所有するという概念がなかった。
私たち人間ばかりでなく、大地はそこに生きるものすべてに、
グレートスピリットから分け与えられているものであり、
私たちもその命のひとつとして生かされているということが、
だから、好きな場所に棲み家をつくり、そこで暮らせばよかった。
土地をめぐっての争いは必要ない。
大地は、誰のものでもなく、同時に、みんなのものなのだ。
そして、彼らは、自分たちだけではなく、
七代先の子どもたちが生きる世界を想い、
家族の絆、部族の絆、自然との調和なくしては、生きてはいけない。
それは特別なことではなく、当たり前のことだった。
そこには私たちが失いかけている自由と豊かさが見えてくる。
そのことへのノスタルジアが、私の感じるある種の
「懐かしさ」なのかもしれない。
レムリアやアトランティスの伝説は、あながち、伝説ではなく、
平和と調和をもって生きていた人々の記憶として、
彼らの中に引き継がれたのではないだろうか。
そんなことを想った。
豊かな暮らしとは、なんなのだろう。
海外青年協力隊の人が書いた文章を思い出す。
彼は、貧しい東南アジアの村で、彼らにテレビやパソコンなど、
現代の便利なものを紹介し、彼らが豊かになれるように仕事を教えた。
でもその結果、自給自足の生活をしていた彼らは、
現金を得る仕事をしなくてはならなくなり、
畑は荒れ、食べるものを買うためのお金も作らなくてはならなくなり、
以前より暮らしがきつくなった。
その日本人青年は、自分がしたことは、彼らを豊かにすることではなく、
逆に物欲のために、自給自足で豊かに暮らしていた彼らの生活を
破壊してしまったのではなかったか、というものだった。
現代社会がもたらした物質的豊かさの陰で、
人間は、自然を支配できるものであると勘違いし、森林を伐採し、
自然に還らないプラスティックのゴミを撒き散らし、
空も大地も水も汚してしまった。
そればかりではなく、家族の絆、
お互いに助け合っていく部族の絆も失いかけている。
つまり、分離の時代を創ってしまった。
七代前の人々が私たちを想って残してくれた美しい世界を
七代先の人々が幸せに暮らせる世界の礎として、
今から私たちも創っていこう!
古の人々の想いを未来へつなげていこう。
「分離」から「ワンネス」へ
「競争」から「協奏」へ
遺跡に立った時、
古からの記憶をのせた風が
未来へと吹き抜けていったような氣がした。
ご拝読ありがとうございます
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