聖書においては、何が語られたか、何が教えられているかということよりも、

 

誰が語ったのか、誰が教えたのかということであり、

 

そこに語られている言葉も事件もすべて、この「誰が」ということに集中されていることを忘れてはならないのです。

 

「人々は我を誰なりと言うか」。

 

このフィリッポ、カイザリヤにおけるキリストが弟子に向けられた問い、

 

これが、我々自身にも常に問いかけられるべきことであり」、主に対」

 

、「汝は活ける神の子キリストなり」。と宣言するものが、キリストを知るものなのです。

 

奥村一郎選集より抜粋

 

 

釈迦や孔子の教えには真理がありますが、死んだことにはあまり意味がありません。

 

キリスト教では、神の子が死んだことに意味があるのです。

 

キリストの死が私たちの罪のためであり、復活が私たちの希望となったのです。

 

ブログを教えると言って、お金を取る人がいます。

 

気を付けましょね。

 

 

寒くなりました。

初雪が降った所があるようですね。

 

 

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