口にできる世界にいたいです。

「私は反戦運動に参加しません。しかし平和運動なら参加します」

とマザーテレサは言いました。

(わたしはマザーテレサを敬愛していますが。

「偉大な、貧しい人のために生きたシスター」というよりは、

「お茶目で、いっぽう、本質を鋭く厳しく見つめたひと」という感覚です。

マザーの笑顔は大好きですが、
ものすごく、ものすごく厳しい人だと思います。)

・・この言葉は、都合よく使われることもあります。

「批判、反対」の口封じに使うのです。

そんなこと、この、相手を選ばない。
黙っていない、(笑)
マザーが喜んだでしょうか。

わたしは、「違和感」もたいせつにしたい。

そして、こんな世界にいたいな、ということを口にしたい。


マザーは、この「違和感」に、ものすごく正直であったはずです。

この発言は、戦争反対運動をする人に反対したともいえるし ^ ^

本当の心の平安を求めましょう、といったともいえる。

・・・・
心の平安が、世界に投影されるのだから。

わたしは、ちいさな幸せや世界の美しさを

見逃さずにいたい。

と強く思う一方、

私はこう感じます。と言ったら、

それが、意見は違っても、

違うことがそのまま、受け入れられる、と信じたい。



「違うんだね」と。


ときに、こう感じる、と言えば、

それは批判だ。意見だ。

と、

批判を許さない、

何も言わせない。

というのは。


ある意味、平和の衣を着た暴力だと思うのです。


都合よく無批判な存在にされてきたのは

わたしたちの長い歴史の中で、幾度もあった。


だから、無批判を要求する世界は、

・・・すこし、
怖くなるのです。


その世界には、「コントロールしようとする人」と、

「心の平安を愛する、

やさしい心を持った、

コントロールされる人」が

いるような気もするからです。