ごはんをたべる | 満ちる日々

満ちる日々

仕事,音楽。息子は小学生になりました

吉田秋生『海街diary』の4巻に「おいしい ごはん」という回があって,これが滅法好きで.
決して万人においしいわけではないけど,誰かが自分のために作ってくれた「ごはん」,だれかと一緒に食べる「ごはん」,それらは単なる「身体を維持するための食事」を超えてその人との思い出とともに蓄積される.
よしながふみ『きのう何食べた?』のシロさんもケンジも,昔家族で食べたものを覚えていて,自分たちの食卓で再現したり,何より相手のために作ってあげたい(特にケンジは巻を追うごとに腕を上げている)という気持ちが溢れている.
ごはんは,身体とこころをつなげるものがあるように感じる.

先日,高校の時の友人が息子を見に来てくれた.実に10年ぶりくらい.
近所の,子供OKの食材にも配慮したカフェにランチしに行って,「健康ランチ」なる日替わりのごはんをいただいて,ほっこりしていいお店だった,という店紹介的なブログを書こうと思っていた.

その翌日,一時期熱心に読んでたあるサイトの,あるライターさんが亡くなっていたことを偶然知った.それも,亡くなってから1年半も経っていた.
ここ数年はそのサイトもゆっくり読んでいる時間がなくなると同時に新しいライターさんも増えて雑多さを感じるようになって遠ざかっており,たまにそのライターさんの個人サイトやフォローさせてもらってたtwitterを見るくらいで,たまたま,そういえば最近webでお見かけしないなと思って検索したら,亡くなっていた.

その頃私は不妊治療をしたりなれない新しい部署の仕事に悪態をついたりしていたのだった.

webでみかけなくなるのと,本当にその人がいなくなってしまうのとは全然違う.もうその人の書いたものを読めない.その人の目で切り取った風景を見られない.

その人の記事には,「食」「食事」と自分自身との距離を測りかねているようなものが多数あって,「食」と「いきること」と「自分自身のこころ」とが分かち難く結びついていることを知っているからこそなんだろうなあと感じていた.

そう思うと店の情報記事なんかどうでもよくなってしまった.
おいしくて居心地の良い場所であったことは確かなんだけど,そこで私が誰とどう食べたかということなんだろう.


そんなわけでこの記事は家を抜け出して近所のマクドで1人書いてる.
困ったことにこれもある意味居心地の良い場所だ.
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RIPとは書けない,なんか.
こんな形で終わらせてしまうなんて残念すぎた.
ご本人もそう思っていらっしゃるのかもしれないけど.
書かれたものはずっと残るので,時々読み返します.