南から静岡に向かうと、新幹線『のぞみ』は
静岡駅に止まらなかった🚄🚄🚄
で、名古屋駅で乗り換え🤣
向かいの線ではあったし、この頃には
りかりかりんも大人しく定位置で
待ってくれるようになっていた。

静岡てんかん・神経医療センターまでは
タクシー🚕
富士山を期待したが、天気がいまいちなのと
静岡でも角度によって見える見えないがある
そりゃそうだ🤣🤣🤣

割と奥まった所にセンターと、隣には
静岡県立こども病院と特別支援学校
が併設されていた。
一連の建物群は、この場所が特別な使命を
帯びている事を推察するに充分だった。

3泊4日だったと思うが
1日目は主に脳波検査
2日目は発達の聴き取りと検査
3日目は結果伝達
のようなスケジュールだった。

広い医師達の詰所のような所とナース棟。
ひとしきりの説明を受けて病室へ案内された。

2人部屋で、奥には私と変わらないくらい
のお母さんが、ひたすらひたすらハワイアンキルトか作っておられた。布団カバーも、枕カバーもお揃いで、その上更にお揃いの大きなキルトは彼女が長い間この場所にいる事を物語っていた。

「どうも」彼女はあまりキルトから目を離さずにそう言った。りかりかりんもいる事だし、短期の検査入院だ。あまり気に入られなくても仕方がない。私はそう思って割り切っていた。

荷物を片付けたら、程なくして脳波検査に入った。24時間脳波検査。なかなかにしんどい🤣
いつもは2時間くらい、それでも、頭に線のようなものを沢山つないで脳波を見るのだが、ここだと、つなぐ線は全てカラーで、同時にモニターに映し出され、同時に記録されていた。

静岡てんかん・神経医療センターは、その当時は、多分現在もそうだと思われるが、神経内科医や神経外科医を国内から研修医の形で集められていて、高名な先生の元でチームが組まれているようだった。訪ねて来たはずの先生には近づけもしなかったが、チームのドクターが診られて、判断は後方でもするらしかった。寝ても起きてもトイレもその状態で、やってる方も大変だし、見ている方も大変という感じだ。ようやく、翌日の朝だか解放された。

食事を終わると、病室ではなんだし、広い解放的な食堂を兼ねた大広間があり、一角を借りて私はりかりかりんと『チャレンジ』をしていた。
何しろ学校は休んでいたし、帰ったら学年末試験が1年生でも溜まるのがわかっていたので、やっていた。

すると、1人の綺麗なマダムが話しかけて来られた。年齢はそう変わらない。めっちゃ美人で優雅だけど🤣🤣🤣
『チャレンジをされてるの⁉️
   懐かしいわ😍うちの子もしまじろうから
    取ってやってたわ』
『すみません💦こんな所で💦
     帰ったらすぐテストなもので💦💦』
   『すぐお帰りになるの⁉️
       お嬢様は何⁉️』
私は、てんかんと発達のセカンドオペニオン的なものを求めてここへ来た事をお話しした。
『そう、、頑張られてね❤️』
彼女は、優雅だが、どこか影のある顔で去っていった。

その後、私は事前のなが〜〜〜〜く書き込みの必要な生育歴を元に、医師にこれまでの経過を話した。先生はお目当の先生で、訪ねて来た旨を申すと、『それならば、一層襟を正して、判断させてもらわねばならないな。責任重大だ❣️❣️』と仰った。りかりかりんは、臨床心理士や言語聴覚士、作業療法士の先生方と別の場所でのチェックを受けていた。

昼過ぎて夕方近くになり、広い食堂でりかりかりんと夕食を食べていた。
ダーーーン❣️❣️❣️
すごい音がして人が倒れた。近くの赤色灯が静かに回った。あ、そうだ、ここはそういう所なんだ。倒れる人がいても、おかしくない。 
周りはスタッフを始め、慣れた人ばかりだ。
誰1人騒ぐ事なく、倒れた人の呼吸を確保し、
騒ぎ立てたり大きな声を出したりして、発作が発作を呼ぶような事は当然誰もしなかった。
私も、頭ではわかっていて驚いたが、平静を装った。もちろん、てんかん発作がどんなものか頭にあったので、こういうパターンもあると思った。
介抱を見守っていた瞬間、隣のテーブルでまた
ダーーーン❣️❣️と音がした。食事を食べていて発作を起こし、うつ伏せて食器が飛んだのだった。
それでも、また近くの赤色灯が回り、スタッフが集まり、周囲の大人も危ない物をのけたりしていた。あちこちにある赤色灯は、その静かな印だった。

その大広間には、個人の意志で、どんな重症の人でも出て来てよい空間だったのか、ここでは日常のようだった。お風呂も、必ず監視の人がいて付き添いのない人達を順に入れていた。

なんだか、まんじりと病室へ戻った。
部屋では、隣のベッドのお嬢様もどこからか帰って来られて、病室で食事を摂られていた。

「あなた、よく、いろんなとこ、行けるわね」
ようやく、隣のママが話しかけてくれた。

「見たんでしょ⁉️ 私ね、もう誰の発作も見たくないの。誰の発作を見るのも嫌なのよ」
私はわからない事だらけだったので、少しずつ彼女に聴いてみた。昼のマダムのことも。

「マダム来たの⁉️珍しいわね。見たとおりよ。
彼女のところの息子さんはまだ幼稚園かしら。
インフルエンザ脳症と聞いたわ。脳が萎縮しているのかしら。いいところのお坊ちゃんみたいで、有名な幼稚園にも行かれてたらしいわよ。彼女一生懸命で、アメリカから原書取り寄せて、治療法を医師たちと模索してるって聴いたわよ」
「ここは日本の最高峰よ。なぜだか東日本の人が多いけどね。西には結構基幹病院が多いらしいのにね。珍しいわよ。私達ももう、100日位にはなるわね。娘は、てんかんの薬を合わせる為だけにここにいるの。他に何にもする事はないわ。
娘は、日中は院内学級に行ってるわ。一般と変わりなく見てくれるから助かってる」
「ここにはいろんな人がいるのよ。てんかんでもおたくもそうかもだけど、薬が合えば早くに完治するわ。でも、タイプにもよるし、成人してもずっとここに置いておかれる人達もいるわ。家族が付き添ってる家は、まだ幸せかもね。」
「神経医療センターなんだから、いろんな人達がいるのよ。だから、安易に話せたり話せなかったりするわよ。だからもう、私は外を歩かないのよ。もう、何年もなる人も少なくないわ」

彼女は実によく、状況を知っていた。
果たして、りかりかりんと私が来ていいところだったのかさえ、疑問になった。もちろん、病院は少しも拒んでいないのだが、ここにはここのルールがある事を改めて知らされ、悩んで来たように思える数年も、比較の問題ではないが、もっともっと思い悩み、挑戦している人達がいる事を知った。

てんかんの治療は、単剤がいいとされる。
とにかく発作を起こさせないようにする事が一番の目標だ。しかし、いくつかの発作パターンがある場合、一薬、ニ薬、三薬と私もおぼろげでだいぶ忘れたがグループ毎に薬の選び方がある。

脳波検査では、棘波と言われる棘のようなてんかん波をどれだけ見切れるか、どれだけ薬を合わせて発作を撲滅出来るか、服薬コントロール出来るかが名医の鍵となる。