萩尾望都の作品は、読むたびにいろんな感想が湧いてくる。
「成功の方程式」が箇条書きされたビジネス書や自己啓発本のようにわかりやすくはない。
「泣くポイント」「なにがどうなっているか」「どういうことか」ト書きやセリフで説明されない。
読者は点描と花びらの霧を透かして真理に手を伸ばすように何度もなんども読んで読んで読み返すほかない。
理解がおよばないまま、仕掛けに気付かないまま、通り過ぎたまま、そういうものがたくさんあるんだと思う。
『イグアナの娘』のラストシーン、小さなトカゲにも気づいていなかった。
わたしってばポンコツ読者。
(トカゲは「母親です」萩尾望都談)
著者の意図が奈辺にあるのか、それを読み取るのが読書の本道。
だとしても、読者がどう読むのかは自由だと思う。
正解がひとつあって。
でも、読者それぞれが受け取った1人ずつの真実も、あっていいと思っている。
たとえば『イグアナの娘』
この番組を視聴するまでラストシーンのトカゲがなにを意味するのかどころかトカゲの存在にすら気づいてなかったポンコツ読者のわたしだけども、それでもイグアナの母娘関係にさまざまな感動と動揺と思索の機会を得た。
ポンコツはポンコツなりに、受け取っていた。
読んだ年齢、立場、コンディション……それらの違いで、作品からのメッセージも変わる。
『イグアナの娘』初読時、わたしは高校生だった。
結婚して子どもを産んで、育てて、また産んで、娘2人の母親になってから読んだとき、わたしは2人姉妹の長女で、2人姉妹の母親になっていた。
長女として妹や母親を見る目と、母親として上の娘と下の娘を見る目、どちらも出来て、見えてくるものは変わった。
『半神』もそう。
読むたびに、受け取るものが変わっていく。
『ポーの一族』を初めて読んだのは小学生の頃だった。
まったいらの胸と棒切れのような足の頃。
まだ、永遠が信じられた。
あの頃のわたしはエドガーやアランやメリーベルが近く感じられた。
時を止めた少年少女に老いはなく性もなく。
凡人のわたしは自分の置かれた立場によって見える景色がどんどん変わっていった。
著者である萩尾望都は、10代20代にして老婆や壮年の男の感性も得ていたのだろうか。少年のまま老賢の眼差しをしたエドガーのように。
神の目を持つ異端として。
だからこそ描けるのか。
ここではないどこか
どこにもいない中性の心
流れゆく止まった時間
相反する無と有が、矛盾のまま自然に同居している世界を
萩尾望都の登場人物は、クラスメイトの誰かじゃない。
どこにでもいる誰かじゃない。
どこにもいない。
だけど街の人波の一瞬、見間違いのような刹那、そこにいる。
誰にも似ていないけれど、わたしの中にも、誰の中にもその要素は有る。
女のなかに男性の要素があるように、男のなかに女性の部分があるように、おばさんのなかに少年がいるように、おじいさんのなかに少女が住んでいるように。
再放送は
1月16日(土)午後3:00~4:40
著者も語る豪華仕様。
収録時間8時間だったらしい。
ノーカット完全版が観たくなるほど、出演者の熱意と愛と知識と分析が素晴らしい番組。
こうでなくっちゃね……!
『ポーの一族』にたどり着くまでに6時間かかったとカズレーザー。
ポーだけで2時間!
せめてその2時間だけでもノーカット版流してほしい…!
萩尾望都先生の顔の真ん中にホクロがあるの、神っぽさが増してる気がする……しない……?


