安楽死専門病院 | 癒しではない本当の自己変革を!

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 ネットであちこちニュースを見てて、台風もどっか行っちゃうくらいビックリした。
 オランダには安楽死専門の病院があるんだそうだ。しかも、ここ最近そこに患者が殺到し、オランダの年間死亡者数の3%までもがそこの病院の安楽死が占めるまでになったそうだ。
 まずは↓を読んでちょ。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131015-00000002-pseven-int

 とりあえず、病気の治療をせず、安楽死ばっかりするところを「病院(クリニック)」と呼んでいいのかどうか疑問だが、とりあえず今は置いておこう。
 安楽死が許されることなのかどうなのかはわからないが、ぼく個人としては、胃瘻(いろう=自力でご飯が食べられなくなったお年寄りのおなかに穴を開け、食べ物を直接胃に流し込む介護方法)をしてまで高齢者を延命させるよりはマシかなぁ、とは思う。
 そもそも日本の医療も介護も、「死ぬことを許さない」というスタンスの上に成り立ってる。だから胃瘻をしてまで年寄りを生かそうとする。
 しかし、許すも許さないも、それは自然の摂理なんであって、人間が選べるものではない。胃瘻だろうが早漏だろうが、いつかは生き物は死ぬんだから。
 でも、だからといって、「じゃあ殺しましょう」ってのもおかしい。「死」をコントロールしようということには変わりないからだ。
 要するに、この手の問題はすぐに結論が出る類のものではないし、ぼくに論じる資格もない。
 ただひとつ気になったのは、オランダでは安楽死を「年を取って生きるのがイヤになった高齢者にも認めようという動きがある」ってところだ。
「苦痛」を安楽死の条件にすると、確かに、年を取ること自体が苦痛だ。たとえ医学上はなんの問題もなくても、本人が「耐え難い」と思えば、それは立派な「苦痛」になる。
 ここであぶりだされる問題は、「生きる」ということと「死なない」ということはイコールじゃなかったってことだろう。
 今までぼくらは単純に「死んでない」から「生きてる」し、「生きてる」から「死んでない」のだと信じてきた。でもどうやら違うらしい。オランダのクリニックに押し掛けてる年寄りたちは、「死んでない」だけで、生きてもいないのかもしれない。
 倫理的・社会的な意味での生死と、生物学的な意味での生死はたぶん違う。生物学的生死をそのまま倫理的社会的生死に当てはめるのは、きっと無理がある。この「無理」を埋めるもののひとつが安楽死なのかもしれない。
 そもそも、生きるとはどういうことなんだろう。
 死の対極にあるものとして生をとらえるのは、理論上不可能だ。今生きてる人で死を経験した人はいないからだ。それは、シャットダウンしたあとのパソコンを基準に、動作中のパソコンを評価するようなものだ。
 お釈迦様が指摘したように、人間はこの世の一切合財を相対性のネットワークの中でしか理解できない。そして、死を経験できない人間にとって唯一、生は相対性の中に意味を見出すことができないものだ。歴史上、多くの哲学者が悩んできた命題である。
 とりあえず、そこまで難しいことでなくても、安楽死は許されるの許されないのか、ってことだけでも考えてみるのも悪くない。うん、秋の夜長の過ごし方にぴったりだ。
 正解がないからといって考えるのを止めてしまうのが一番よろしくない。いつの時代も自分の頭で考える。これが一番大事ですな。