いろんな意見や考えがあるよねぇ。
 
コメント読んでると、ほんとそう思う。自分の意見や考えをちゃんと表現できるって素晴らしい事だなと思う。
 
〝右にならえ〟とか他のひとの顔色や出方をうかがって意見するのではなく、ちゃんと自分はどうかな?🤔って感じることが大切だと思ってる。
 
 
だから、わたしも考えてみた。
“わたしの心が動くものは何だ?”
 
 
これって、実は聴く側(器)の状態も少なからず関係してると思う。見ず知らずの一流アーティストから入ってくる一流音楽と、好きなアーティストから入ってくる音楽では変わってくると思う。
これがまづベースにある。
 
 
だけど、そうじゃない場合がある。
 
 
先日行ったジャズコンサート。
知らないひとだったので退屈するかと思ったけど、すごく新鮮で楽しかったのは…
 
彼女がものすごく音楽を、バイオリン🎻を
楽しそうに演奏していたからだ。それに巻き込まれた感じだった。
 
きっとコロナ禍で長く人前でコンサートすることが出来なかったのだろう。人に聴いてもらう演奏が幸せすぎて、楽しすぎてハッスル(ふるっ)しちゃったー音譜って感じだった。
 
 
 
わたしが見てるところって
この人は楽しんでるのかな?ニコ
この本人がそもそも楽しんでるのかな?ニコ
楽しさに陶酔してるだろうか?
ゾーンに入ってるだろうか?
 
 
そんなところだと思う。
 
 
例え、自分以外の誰かのために演奏したとしてもその思いは届く。ほんとうに思ってるなら。それが胸に刺さる。
 
例えば被災地の避難所の大して良くない環境の中で歌ってくれた歌は、心に響かないのかと言ったらちがうだろう。
純正律だから嬉しいのではなく、このひとが弾いてくれるor歌ってくれるのが嬉しいのだ。
純正律という条件で見てるのではなく、その人そのものを見てるということ。
もちろん純正律だからイイというひともいる。
 
誰かを思って 誰かのために 弾いたのなら
例え純正律じゃなくても それは伝わる。
 
誰かを喜ばせたいという思いの“誰かのため”と
その結果(評価)を期待して喜ばせたい“誰かのため”
これは似てるけど、ちがうものなのだ。
 
 
だから、誰のためにやるのかと言ったら
まづは自分自身のため。自分自身を喜ばせるため。
尽くす相手は自分自身だということ。
だから正直、自分が満足して喜んでいるなら
他人がそれをどう評価しようとも関係ないのである。
相手が喜んでいようがいまいが、それは相手が勝手に受け取る域でコントロールすることはできない。
だけど、自分の気持ちだけは絶対にわかる。
 
 
そして
 
 
選びたくない!選べない!と言ったって、現実には必ずどちらかを選ばないといけない時がある。
例えばわたしの親戚は一度に同居のお義父さんを亡くし、その後ダンナが精神的に落ちて体調を崩し、あろうことか義母もおかしくなった。
 
ここで、誰を選ぶのか?
 
ひとりでは持ちきれない人数だ。ずっと義父のお世話してきた。その義父が亡くなり、旦那が精神的ダメージを受けて鬱状態のところに姑まで倒れたのだ。
 
選びたくなくたって絶対に選ばないといけない時が人生にはある。
そのとき、自分の選択や判断に責任をもてるかどうか。
救いの手をだしてこなかった周りはそれを責めたり恨んだりするべきではないと思う。
だって、自分がその立場だったら?自分ひとりで全員を抱えることができるだろうか?
きっと自分も倒れてしまうだろう。だけど、自分がここで倒れるわけにはいかないのだ。
 
 
これが実際にわたしの親戚におきたこと。
そんなことにはならない、と言ったって起きるのが人生だ。
どちらかを選ばなくてはいけない時は必ずある。望んでいなくても。