スケートの音色~羽生結弦が弾くショパン~ | ショピンの魚に恋して ☆羽生結弦選手に感謝を込めて☆

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「バラード第1番」は、祖国ポーランドを愛するショパンが感銘を受けた愛国詩人、ミツキェヴィッチの詩「コンラード・ワーレンロット」からインスピレーションを得たとも言われている。

 

これはシューマンがショパンに聞いたという話に基づくものだが、その真偽はよくわかっていない。

 

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非キリスト教国であったリトアニアは十字軍との戦いに敗れて独立を失った。

 

その際、敗れたリトアニアの幼い王子コンラード・ワーレンロットは十字軍に捕えられ、その首領の養子として育てられた。

 

やがて勇猛な騎士へと成長した彼は敵である十字軍の首領に選ばれるが、母国リトアニアの独立に加担し敵を討った。

 

そのため十字軍を裏切ったとして処刑された・・・というのがこの詩の物語だという。

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またポランスキー監督の有名な映画「戦場のピアニスト」の最も重要なシーン、ポーランドのピアニスト、シュピルマンがナチスの将校ホーゼンフェルトの前で、自らがピアニストであることを証明する命がけの場面で弾いた曲でもある。(原作ではノクターンの遺作の方だったというが、映画のシーンとしてはバラード第1番は絶妙な選曲だったと思う。)

 

他の映画でも挿入曲として使用されていたり、とにかくショパンの作品の中でも有名な一曲であることは間違いない。

結弦くんが初めてクラシックのピアノ・ソロ曲、ショパンのバラード第1番に挑戦したシーズン。

 

彼がどのようにこの曲を解釈するのだろうと興味深かった。

 

彼のことだから作曲家自身や曲の背景等について綿密な調査を行うのだろうか、それを曲の解釈に活かすのだろうかと・・・。

 

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実際彼が演じ始めたショパンは、こうした曲の背景や知識との関係を感じさせない、彼自身による『羽生結弦のショパン』であったことに私は驚きを覚えた。

2015年9月に結弦くんはこのようなことを語っている。

「クラシックのオーケストラを滑っているときは自分が指揮者のイメージ。周りをコントロールしているという訳でもないけど、自分が滑ることによって音楽が聞こえる、自分がやることによって曲がついてくる。」

「映画やミュージカル音楽の場合は、自分が演技をすることによって、その映像がよみがえるようなイメージ。」

「でも、バラードはピアノ・ソロだから、そのどちらとも違う。その(自分と音楽との)距離感がちょっとまだつかめない。バラードはイメージとしてはデュエット。自分も一緒に奏でている状態。ソロのピアノ曲だから一つ一つの音が明確だけれど、一音一音に合わせるのではなくて、プログラムを引き立たせるために、一緒に弾いているみたいな感じ。弾き語りでいうと、歌パートとピアノパートみたいな関係。その曲一つを作るために歌もピアノもあって、その二つが融合するから、曲として素晴らしいものが生まれる。ピアノがあって演技があるから、プログラムがひとつのものとしてきれいになる。一緒に作り出している感じ。」

 

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彼は紛れもない天才だと思った。ここでいうのはスケートではなく、音楽を感じる天賦の才という意味で。

 

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ショパンの作品はあまりに愛されているためだろう、「別れの曲」「子犬のワルツ」「雨だれ」「革命」だの、いわゆる「愛称」で呼ばれる事が多い。

 

これはそうした愛称的な標題が連想させる視覚的、あるいは文学的な「イメージ」というものが、一般的な曲の解釈に役立つという意味合いのものもあるのかもしれないが、ショパンその人は自分の曲に「標題」をつけるのを好まなかったという。

初めて挑戦した最初の年は、バラード第1番にまつわる知識や背景を学習することで曲に対する理解を深めるような、そんな演技をするのかと思いきや、彼は最初からそこを超えて行ってしまった。

 

「標題」を自分の曲につけることのなかったショパンに、より近づく場所へと本能で進んで行ったように思う。彼は実際、そのようにしてプリンスの音楽にもアプローチしたに違いない。

知識や背景を知ることは無駄ではないと思う。ただ、そこにこだわり過ぎると自分を失い、単なる物真似に終わる危険性も出てくる。

ミツキェヴィッチの詩もあくまで作曲者がインスピレーションを得たに過ぎないものであり、戦場のピアニストのイメージもそれを思い浮かべた製作者のイメージであって、そこにこだわりを持ち過ぎると演じる側も見る側も感じ方の幅が狭められてしまう。

 

純粋にピアノの音やスケーティングだけを切り離して聴く(見る)ことができなくなってしまうかもしれない。

「子犬のワルツ」だって、その標題をつけた人にとっては子犬を連想させるものだったかもしれないけれど、恋人に会いに行こうと小躍りする男性の姿を連想したってよいわけだ。

その叙情的なメロディーはロマン派の代表のように言われるショパンだけれど、彼自身は保守的な感性の持ち主で、バッハのような古典を愛していたし、曲そのものは形式を重んじて、標題音楽とは遠い場所にいたように思う。

 

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「気に入っているし、自分を成長させてくれるプログラム。ピアノは一つ一つの音が繊細。右手の音と左手の音のハーモニー、バランス。ピアノ・ソロだからこそ出てくる旋律とか音のきれいさ。シンプルさがあるかもしれないけれど、そんな『物語性がないもの』を音符の上を振付ながら滑って行くように表現する。ピアノの旋律と同じようなバランスで、演技が溶け込んでいくようなものにしたい。」
2015年11月 羽生結弦

私は結弦くんを「氷上のピアニスト」と呼びたい。

 

羽生結弦のショパンはこのように弾くものだと、銀盤で弾いて見せるスケーター。

 

同じ時代に生き、そのスケートの音色を聴く幸せと喜びを、どう伝えればよいのか私にはわからない。