春待つ桜 | ショピンの魚に恋して ☆羽生結弦選手に感謝を込めて☆

ショピンの魚に恋して ☆羽生結弦選手に感謝を込めて☆

清冽な雪解けの水のようにほとばしる命の煌めき・・・
至高のアスリートにしてアーティスト、
羽生結弦選手を応援しています。

 

「春待つ桜」

 

時を待つ人は
桜の樹に似ている

 

その根に枝に幹に
静かに力を蓄え
春を待っている

 

君が美しい花を咲かせるのは
そんな冬を過ごしたから

 

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ちょっと季節外れですが、桜の詩を作ってみました。

札幌に結弦くんのメッセージが届けられたとか・・・。

「待っていてください」と・・・。


結弦くんが過ごす冬はちっとも寒くなんてないんです。だって、こんなにもたくさんの人々が、世界中で温かく見守ってくれているのですから。

 

Ice Jewels vol.3がようやくAmazonさんから届きました。素晴らしい内容でした。ブライアンがインタビューでこんなことを語ってくださっていましたね。

 

「ユヅルがシーズンを通して素晴らしい演技をする日はそのうち来る。そのことを私は疑っていません。」これはオリンピック・イヤーへ向けての予言かもしれません。

 

今季、ブライアンの言う「シーズンを通しての素晴らしい演技」ができなかった原因を、結弦くんはもう既に「心と体のバランス」に問題があったと分析していました。

 

ボストンへの結弦くんの思いを読んだ時は切なくなりましたが、でも、確かにどんなに準備をしてきても、本番ではいろいろな事が起こり得ます。彼は今、大きな夢に向けて神様が用意してくださった課題を、ひとつひとつクリアしていく道の途上にいるのですね。

 

「心と体のバランス」で思い出したことがあります。子供の頃、「モモ」という本を読んだことがある方も多いかと思いますが、1989年の元旦の朝日新聞に掲載された「モモ」の作者、ミヒャエル・エンデの紀行文です。忙しさの中でふと我を見失いそうになるとき、私が時々思い出すお話です。

 

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考えさせられるふたつの「答え」
~「モモ」からのメッセージ~
ミヒャエル・エンデ

 

何年か前、中米奥地の発掘調査に出かけた研究チームの報告を読んだ中に、こんなことがありました。

 

調査団は、必要な機器等の荷物一式を携行するためにインディアンのグループを雇った。調査作業の全行程には完壁な日程表ができていた。

 

そして初日から4日間はプログラムが予想以上によくはかどった。運搬役のインディアンたちは屈強で従順で、日程通りに事が進んだのだ。

 

ところが5日目になって、彼らは先へ行く足をぷっつり止めた。

 

黙って全員で輸になり、地べたに座り込んで、もうテコでも荷物を担ごうとしない。調査団の人たちは賃金アップを提案したが、だめだった。

 

叱りつけたり、ついには武器まで持ち出して脅したりしてみたが、インディアンたちは無言で車座になったまま動かない。学者たちはお手上げの状態で、とうとう諦めた。日程には大幅な遅れが生じた。

 

と、突然・・・2日後のことだった。インデイアンたちは同時に全員が立ち上がった。荷物を担ぎ上げ、予定の道を前進しだした。賃金アップの要求はなかった。

 

調査団側から改めて命令したのでもなかった。この不思議な行動は、学者たちにはどうにも説明のつかぬことだった。

 

インディアンたちは、理由を説明する気などまるでないらしく、口を閉ざしたままだった。

 

ずっと後になって、白人のグループの数人と彼らとの間に幾分の信頼関係が生じてから、初めてひとりが答えを明かした。

 

「始めの歩みが速すぎたのでね。」という答えだった。

「わたしらの魂(ゼーレ)が後から追いつくのを待っておらねばなりませんでした。」

 

この答えについて、私はよく考え込むことがあります。工業化社会の文明人である私たちは、未開民族の彼らインディアンから、学ぶべきところまことに大きいのではないでしょうか。


私たちは、外的な時間計画という日程を滞りなくこなしていきます。が、内的時間、魂の時間に対する繊細な感情を、とっくに殺してしまいました。私たちの個々人にはもはや逃げ道がありません。

 

ひとりで枠を外れる訳にいきませんから。私たち自身が作ってしまったシステムは、容赦なき競争と殺人約な業績強制の経済原理です。これを共にしないものは落伍します。

 

昨日新しかったことが、今日はもう古いとされる。先を走る者を、はあはあ舌を出しながら追いかける。すでに狂気と化した輪舞なのです。

 

誰かがスピードを増せば、他の皆も速くなるしかない。この現象を進歩と名づける私たちです。

 

が、慌ただしく走り続ける私たちは、はたしていかなる源から遠ざがりゆくのでしよう?私たちの魂からですって?

 

そう、私たちの魂は、もうはるか以前に路上に置き捨てられました。それにしても魂を捨て子にしたことで、肉体が病んでいきます。だから病院や神経治療施設は、人々であふれています。

 

魂不在の世界、これが私たちの走りゆく目的地だったのでしょうか?もうほんとうに不可能でしょうか、私たち全員が狂気の輪舞を一斉に中止して、お互いに車座になって大地に座る、そして無言で待つ、ということは?

 

もうひとつの「答え」のことは、文化人類学者の友人から最近聞いたばかりです。これもひとりのインディアン女性の口から出ています。

 

その友人が旅先で出かけた山の頂上にインディアンの村があった。その地方一体には水源がたった一カ所にしかなくて、それは山の麓の井戸だった。

 

村の女たちは、毎日半時間の坂道をおり、帰りは重い水がめを肩にして一時間、山をのぼっていく。

 

友人は、女たちのひとりにたずねた。「いっそ村ごと、麓の水源近くに移したほうが賢明ではないかね。」

 

女の答えはこうだった。「賢明、かもしれませんね。でも、そうしたら私たちは、快適さという誘惑に負けることになると思います。」

 

私たち文明人には、この答えは先ほどの答え以上にいぶかしく聞こえるのではないでしょうか?快適であることが、なぜ誘惑と呼ばれるのか?

 

私たちが手にした洗濯機、自動車、エレベーター、飛行機、電話、ベルトコンベヤー、ロボット、コピューター、要するにおよそ現代社会を構成する全てのものは、快適な生活のためにつくられたはずです。それとも?

 

これらのモノは、暮らしを楽にします。骨の折れる仕事から私たちを解放し、もっと本質的なことのために時間を恵んでくれる。そうではなかったでしようか、私たちを解放するんでしょう?そうです、確かに・・・。

 

ただ、何から解放するのでしょう?ひょっとして、まさに本質的なことから?だとしたら、いったいどうなっているんでしょう?

 

私には、あの奇妙な言葉を口にしたインディアン女のほうが、本当はこの私たちの誰よりも、ずっとはるかに解放されて自由なのだ、という思いがつきまとって離れません。

 

聖書にも、これに似た不思議な言葉があります。

 

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の魂(ゼーレ)を失ったら、何の益があろうか。(マタイ伝16・26)」

 

何、言ってる、魂がどうのこうのだって!そんなもの、我々はどこかの路上にとっくに置き忘れてきたよ。未来の世の中は徹底的に快適で、完全に本質不在の世界になってるさ。

 

あなたはそう思いませんか?ま、新年に乾杯!

 

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速く歩み過ぎたら、魂が追いつくのをじっと待つ・・・。

素晴らしいパフォーマンスが生まれる瞬間が、結弦くんの言う「心と体のバランス」が完璧に整った時だとするならば、ボストンまで頑張り過ぎた結弦くんの体は今、魂が追いつくのを静かに待っている時なのかもしれません・・・。

 

私たちも、焦らなくていい・・・。

時には勇気を出して立ち止まり、じっと静かに魂が追いつくのを待つ時間があってもよいはずです。

 

 

 

 

 

 

 

photo : zimbio