父親の実家に2月頃に引っ越して来て、舅と姑、そして小姑と同居の新婚生活が始まった母親は、その年の冬に第一子を出産した。

 

産まれたのは、私の祖父である母親の舅が待望していた男の子だ。

 

母親は、夫婦の寝室がある2階の部屋で育てようと思ってたそう。

でも、舅と姑が猫可愛がりしてたとかで、

「下の俺達の部屋に、◯◯も孫の△△と一緒に寝起きすればいいから」

と言われ、布団を3枚並べて、舅と姑の間に、母親と息子を入れて寝たそうだ。

 

親子川の字ではなくて、舅&姑と川の字で何とも疲れそうだ。

 

 

「私はまだ22歳だったし、小娘の意見なんて全く通らなかったしねぇ。

 

 でも、世話もお手伝いさんが結構してくれてたし、

 おじーさん(舅)は、とにかく優しい人で私のことは気遣ってくれたしね」

 

そんな風に、以前母親が話してたのが記憶にある。

 

 

冬で寒いからと、昔の分厚いお布団を何枚もかけてしまい、

乳児だから物凄く暑かったと思うんだけど、案の定、それで風邪をひかせたり。

 

昔の人だから、寒い=厚着の感覚なんだろうね。

まぁ、孫可愛さでしてくれたんだろうけど、ちょっと有難くないかもしれない。

 

 

舅も姑も、大変な可愛がり様で、

「小さな殿様状態だったよ」

と母親の談。

 

 

そして、暫くしてその息子に気管支の病気が目に見えて、入院。

おまけに、リュウマチも併発してしまったそうで、殆どを病院で過ごしていたそうだ。

 

その間、舅が毎晩付き添うとかで、なんと個室に入院!!!

 

昭和30年台の個室なんて、幾らしたんだかわからないけど、

経済的な心配がなかったから出来たことだなぁ、と思うけどなんか凄いね。

 

そう言ったことを繰り返しながら、最初の子供は生き長らえたのだね。

 

退院後に通院が必要になった時は、舅と姑がタクシーで県庁所在地の街にある医科大学まで行き来して、母親は何だかただの付き添いの人状態だったそう。

 

「わしの孫息子に、最高の治療を!!!」

 

そんな勢いだったので、その医科大学での医者も厳選したとかどうとか。

 

母親は、自分の子供が病気を持って産まれてしまって、悲しかったのだと思うけど、

自分の意志とかは全く聞かれなくて、いつも子供を取り上げられてしまって、ロクに子供に触れることが出来なくて、

 

「私は何なんだろう?
 母親なんだけど、なんでいつも1人なんだろう?」

 

と不思議に思ったそうだ。

 

 

この間、夫である私の父親は、相変わらずだったそうだ。

 

「△△が喘息なの」

 

「リュウマチがあるんだって、どうしよう?」

 

そんなことを言っても、子供を抱いたこともないし、ミルクは勿論で、

おしめ(まだ紙オムツない時代ですね)だって、一度も替えたことなどないのだ。

 

産まれた日だって、帰って来たのは、いつもと変わらずに次の日の朝方。

 

そして、すぐに寝てしまうから話しかけられないし、起きても寝呆けているし。

何か言おうと思っても、母親がトイレに入ってる間に外へ出て行った後だったとか。

 

全くのすれ違い生活と言うモノが、子供が産まれてからも続いてたと。

 

 

今の時代だと、(あまり詳しくないのだけど)里帰り出産とか言うコトをするようだけど、

きっと当時はそう言ったことはなかったのかもだし、第一あったとしても、母親の母親はこの時は入院してたか、或いは亡くなってたか、ちょっと時系列があまりわからないのだけど、いずれにせよ、母親には「実家で親に大切にして貰って出産」とかは選択肢外だったと思う。

 

そして、夫の実家には自分の知人もいないし、同世代の人などと話すことも皆無。

 

実家のあった東京でも、姉妹はまだ独身だったと思うし、仲の良いお友達の(どっちにも何度も会ったことがある)Hさんも、もう1人のなんとかさんも、まだ独身で子供のことなどわからない。

 

話すにしても、電話が家にあっても、彼女達の家にはなかったから話せない。

 

「手紙は毎日のように、家族にも友達にも送ったなぁ」

 

と言ってたけど、返事が来るのは当時は1週間から10日位かかったとか。

今の時代のように、SMSなんてないから、本当に淋しかったんだろうなと簡単に想像がつく。

 

 

そして

 

「あまり期待出来ないかもしれない」

 

と医者から息子の生命力のことを聞かされて、

 

 

 

「悲しかったけど、実際にはよくわからなかったんだよ。

 私ね、自分の毎日が普通ではないなと思ってて、△△の病気のことで、

 更に変な状況になってるなぁ、とまるで人事のように感じてたことあってね」

 

と言ってたけど、自分から切り離されているから、実感のようなモノが無かったらしい。

 

 

 

こんな生活が、この後ずっと続いたと言うことだけ、私は聞いたっけ。