自分が「マイノリティ」だなって思う最たるモノが「死」がこの生の終着点であり、魂の次の「はじまり」だと思ってることだと思う。
普通生きている上で、仕事だろうが、スポーツだろうが、皆、「結果」を求める。
その過程でその人がどのような苦労をしようが何を思おうが、「成功」した「結果」だけを見る。
もちろん「考察班」いるので、それだけではないとは言うけど。
でも。
私は。
「結果」は特に見ない。
そこに至るまでの「過程」こそが私にとって心に響くものだから。
主足るものが「生きる」こと。
誰しも、苦しいとき、自分ではどうしようもないとき、思うでしょう?
「・・・死んだら、楽になれるかな」
ここで本当に死ねる人もいれば、死ねない人もいる。
それだけ。
私は「死ぬこと」は怖くない。
ただの通過時点でしかない。
例えば、皆が望む「結果」が私にあるとしたら、「生きる」繰り返しが終わり、無に還るときかね。
そして、そのとき何を想うのか。
それだけのために生きてる。
とりあえず、今回の生では長生きしそうなので、それまでにどれだけ頑張れたって思えて、先に逝った大事なものたちに、「ここまでこれたよー」と言えるような死を望むかな。そんで、「さあて、お次はどうかな!?」って思うんだろう。
そんで、生きてる過程で自分がしたこと、何を想ってきたか、そして望んたのか、そういうことを大事に思う。
「過程」が大事であり、「結果」はただそれに見合ったものがついてくるだけ。
何を想い、どう行動し、そして死ぬのか、それは、その人その人が選ぶことであり、私には関係ない。
むしろ、自分は人とはホント考え方とか自分で驚くほど違うので、自分の影響を人に与えたくないですね。
高校の時の友人一人の人生観変えちゃってる実績あるんで。
彼がそれに満足しているならいいけども、私に出会わなければ、普通に順風に生きてたことだけは確かだし。
本人からくみちゃんに出会って人生観変わったわぁとどんどこ服装もやることも変わっていった彼は、自由になったのだろうか。それとも人生の枷が大きくなったのだろうか。
まあ、人の中で生きてる限りお互いに価値観は違うので影響し合うものだけど、私の価値観、自分の中で肯定して、「私はこういう生き物」的な自分への理解が深いので、あまり影響を受けない。
ただ漫然を人生を送っている人にとって、ちょっと「害悪」なんじゃないかとドッキドキ。
ほんでも。
自身で肯定し、その責務を負うのならば、人から非難されようが、何をしようが、死に際満足すればそれはそれでいいとも思う。
そんな興味ないからさらっとしかしらんが、ヒトラーさん、最期は娘のことしか考えてなかったしー。
ドイツ語で「ゲリー」なので、なんか覚えてる。
あれだけの人を殺していても、ヒトラーさんが何をしたかったのかはわからんが、最期に結局他の人のように娘を想って死んだんだよねぇ。
まあ時代も悪かったし、逆に時代が時代だから、「演説」という大衆を洗脳する技術のあるヒトラーさんが時代に選ばれてしまったのかもしれないし。
多くの人が、「地球そろそろヤバいよね」とは思っていても、だからと言って私も含め、何かができるわけでも、利便性を捨てることもできない。
特に子を持った今、「すまん、地球さん!!」と思いつつも子が一番だもの。
その中でつらつらと思考の海に沈んではできもしないことをつらつらと思うのさ。
「出来る」
と
「やる」
は違うことのように、心で思っていてもできないのなら、やらないのと一緒だし、なんなら何も考えてない人と同じだし。
あとは、私、ボランティア大っ嫌い人間だったんですけど、それって、ボランティアをしている人たちが、さも、「自分は善人ですよ」オーラだしてからなんで。
ボランティアそのものはいいんじゃないですかね、自分にゆとりがあって、余った時間さあ何しようと思ったときにたどり着いたのがボランティアなら、それは趣味であり、趣味をしてるだけなのに、人様の役に立ってるので、とても素敵だとは思います。
ちなみに私の好きな言葉は「やらない善よりやる欺瞞」ですね!!!