バードが見た、明治はじめの日光の話。


今回は日光市内である。


 私が今滞在している家について、どう書いてよいものか私には分からない。
これは、美しい日本の田園風景である。
家の内も外も、人の眼を楽しませてくれぬものは一つもない。
宿屋の騒音で苦い目にあった後で、
この静寂の中に、音楽的な水の音、
鳥の鳴き声を聞くことは、
ほんとうに心をすがすがしくさせる。

おそらく騒音は栃木宿の話だと思われる。
そりゃ日雇い人足が一晩中酒飲んでて
話が理解できないなら面白いわけもない。
私はバードの気持ちがよくわかる。
わたしは静かに酒を楽しみたいのである。


家は簡素ながらも一風変わった二階建てで、石垣を巡らした段庭上に建っており、人は石段を上って来るのである。

金谷さんの妹は、
たいそうやさしくて、上品な感じの女性である。
彼女は玄関で私を迎え、私の靴をとってくれた。

一方の隅には床ノ間と呼ばれる二つの奥まったところがあり、光沢のある木の床がついている。
一つの床の間には掛物《壁にかけた絵》がかけてある。
咲いた桜の枝を白絹の上に描いた絵で、すばらしい美術品である。
これだけで部屋中が生彩と美しさに満ちてくる。
それを描いた画家は、
桜の花しか描かなかったが、
革命(維新)の戦いで死んだという。

明治10年。戊辰戦争を忘れるにはあまりに早い。
日光は徳川家の聖地なので幕府軍は集結していた。

今市宿(現在の日光市今市)は

江戸と日光を結ぶ日光街道、

会津若松へ続く会津西街道、

高崎へ続く日光例幣使街道

奥州街道の宿場町大田原宿へ続く

日光北街道の集まる交通の結節点だった。

慶応44231868515)、

宇都宮城の戦いで敗北した大鳥圭介率いる旧幕府歩兵は、

初期の目標であった徳川家康霊廟日光山での新政府軍との決戦を意図し25に日光へ到着したが、

日光には留まらず今市から会津西街道に進路を取り

45、会津藩領の田島に到着した。

これは一説には

板垣退助の依頼を受けた台林寺住職厳亮による、

東照宮を戦場にしないための説得があったとされ、

これを顕彰する板垣の銅像も日光東照宮近くに存在する。

しかし老中板倉勝静による同様の説得があったとする説、

秋月登之助による助言があったという説、

さらにその後の行動から、

会津藩・仙台藩を含む反新政府目的の一斉軍事行動計画の一環とする意見もある。

また、谷干城(たにたてき)も説得していた。

このとき、負傷した土方歳三もここにいた。

そして一旦会津に後退し、動けるものが再び南下して今市の戦いとなる。

※大鳥圭介→幕臣ながら初代工部大学校長

(現在の東大工学部)

のち3代目学習院、

華族女学院(学習院女子)総長となる。

壬午政変、甲申政変の事後処理で袁世凱と交渉。

日本初の温度計と気球、

金属活版など発明家でもあった。

マジで日本のダビンチ。

谷干城は西南戦争勝利させたのち新聞日本を創刊。

正岡子規を雇った。


私は部屋がこんなに美しいものでなければよいのにと思うほどである。というのは、インクをこぼしたり、畳をざらざらにしたり、障子を破ったりはしまいかと、いつも気になるからである。

バードの泊まった部屋が再現されている。
※現存していると書くのは変だ

歴史観にある金谷ホテル侍屋敷。

(旧カッテジイン)


夕食は膳にのって来た。膳というのは高さ六インチの小さな食卓で、金の蒔絵がしてある。
私は御飯とお茶つきで二部屋借りて一日に二シリング払う。
伊藤は私のために食糧を探し、ときには一羽一〇ペンスで鶏を手に入れる。
鱒の一皿が六ペンスで、卵はいつも一個一ペンスで手に入れることができる。

正直、当時のシリングやペンスの価値がわからない
卵一個は平年15から20円であるので、
これで計算すると鱒は120円。鶏は200円。
1ポンド = 20シリング = 240ペンス
(1シリング = 12ペンス)。
1泊2シリング=2×12ペンス=24×20円。480円。
…卵は物価の優等生すぎて換算にならない。
逆に4800円として価値を計算すると
鶏2000.円、鱒は1200円、卵200円程度。

個人の家に住んで、
日本の中流階級の家庭生活の
少なくとも外面を見ることは、
きわめて興味深いことである。