新しい一週間の始まり、みなさまいかがお過ごしでいらっしゃいますか?
私は昨日と一昨日、東京に勉強に出かけておりました。
やりたいこと、好きなことを常にやっている私です^^
その折、帰りの便は北九州空港に到着するスターフライヤーを利用したのですが、機内誌にとても興味深い記事が載っていました。
スターフライヤーが、経済産業省が主催する「おもてなし経営企業選」に選ばれたという、その記事。
目を引いたのは、選考委員長の力石寛夫氏の言葉でした。
「おもてなしと言うと、顧客満足度と捉えている人が多いが、今回の選考では従業員満足度を優先した。」
「働く人が幸せに仕事をしていない環境で、どのようにしてお客様と幸せの共有ができるのか。」
この言葉を、母親と子供の関係に置き換えてみましょう。
「母親が幸せでない家庭で、どのようにして子供の幸せを育み、幸せを共有することができるのか。」
私が自分の子育てと仕事の「核」としているのも、まさにここです。
それは、いろんな親子を見て来て、そして何より私自身が母親と過ごして、子供の頃から痛感してきたことだからです。
私の母は、常に周りのことを考えて、自分のことは、二の次。
自分のやりたいこと、自分の思いを押し殺し、自己犠牲で生きてきました。
その母を見て、「母のようには生きたくない」というのが、子供時代の私の原動力でした。
母との仲は、子供時代から良いのですよ。
心から感謝しています。
だけど…
自己犠牲で生きる母の姿は、子供の目にも、まったく幸せそうではなかったのです。
いつも「辛い」とこぼし、過労で身体をこわし、大事な母が、幸せそうではない。
その状況を変えられない自分の無力感にさいなまれ、子供心に自分の存在を呪うような思いでした。
そんな母の側にいる私は、「自分も幸せを選んではいけないのだ」と思い込んでいました。
そしてこれは何とも不思議なことでしたが…
良心的に、自己犠牲的に生きる母には、「どうして、いつも…?」というくらい、「辛いこと」が次々と、休みなく降り掛かるのです。
この不思議は今だから少しわかるのですが、自ら「辛いこと」を選ぶと、その先も次々と、「辛いこと」を呼び寄せてしまうようなのです。
母のいちばんのかなしみは、自分の息子から「その子育てが、失敗だったのだ」と今も突き付けられていることでしょう。
子供の幸せのために生きてきたことを全否定されて、心が弱る母。
でも、どんな言葉や感謝の思いを娘として投げかけても…
かなしいかな、自分で「幸せ」を選ばない限り、母はそこには行けないのです。
その母に、もちろんこれからも…出来ることなら母が自分の人生に満足を感じられるよう、寄り添っていたいと私は思っています。
きびしいようですが、あえて言います。
自己犠牲は「偽善」です。
「善」は…喜んで、楽しんでいることだと思います。
自分が喜んで、楽しんでいるところに、他者と喜びや楽しみを共有し、そしてほんとうに必要なことがもたらされる。
そのように、私は自分自身や周りの人たちの経験から確信しています。
とは言え、母の子育てが「失敗」と、結論づける気持ちは毛頭ありません。
母の子育てを否定した私の弟の言葉は、まだまだ人生なかばのもの。
今は辛そうに見える母だって、それはほんとうに「辛さ」だけなのか?
この先、深い歓びに気づくのかも知れません。
人生の意味と奥行きは、ほんとうに計り知れませんから。
そもそも「その子育ては、失敗だった」と他者(親であっても)を批判するのは、そのように言う本人の問題です。
年齢に関係なく、そのように言う本人が成長過程にあるということです。
どんな子育ても、ある方向から見れば「成功」で、別の方向から見れば「失敗」なのです。
「これが正解」というものは、どこにも存在しません。
どこにでも喜びや学びがあり、それを誰だって、ある時は見過ごしたり、ある時は見つけたりしながら、日々を過ごしているのです。
それを前提に、お伝えしています。
子供の幸せはお母さんの幸せから。
ひとりひとりのお母さんの幸せに、切に寄り添いながら、これからもこのブログを配信していきます。
私は昨日と一昨日、東京に勉強に出かけておりました。
やりたいこと、好きなことを常にやっている私です^^
その折、帰りの便は北九州空港に到着するスターフライヤーを利用したのですが、機内誌にとても興味深い記事が載っていました。
スターフライヤーが、経済産業省が主催する「おもてなし経営企業選」に選ばれたという、その記事。
目を引いたのは、選考委員長の力石寛夫氏の言葉でした。
「おもてなしと言うと、顧客満足度と捉えている人が多いが、今回の選考では従業員満足度を優先した。」
「働く人が幸せに仕事をしていない環境で、どのようにしてお客様と幸せの共有ができるのか。」
この言葉を、母親と子供の関係に置き換えてみましょう。
「母親が幸せでない家庭で、どのようにして子供の幸せを育み、幸せを共有することができるのか。」
私が自分の子育てと仕事の「核」としているのも、まさにここです。
それは、いろんな親子を見て来て、そして何より私自身が母親と過ごして、子供の頃から痛感してきたことだからです。
私の母は、常に周りのことを考えて、自分のことは、二の次。
自分のやりたいこと、自分の思いを押し殺し、自己犠牲で生きてきました。
その母を見て、「母のようには生きたくない」というのが、子供時代の私の原動力でした。
母との仲は、子供時代から良いのですよ。
心から感謝しています。
だけど…
自己犠牲で生きる母の姿は、子供の目にも、まったく幸せそうではなかったのです。
いつも「辛い」とこぼし、過労で身体をこわし、大事な母が、幸せそうではない。
その状況を変えられない自分の無力感にさいなまれ、子供心に自分の存在を呪うような思いでした。
そんな母の側にいる私は、「自分も幸せを選んではいけないのだ」と思い込んでいました。
そしてこれは何とも不思議なことでしたが…
良心的に、自己犠牲的に生きる母には、「どうして、いつも…?」というくらい、「辛いこと」が次々と、休みなく降り掛かるのです。
この不思議は今だから少しわかるのですが、自ら「辛いこと」を選ぶと、その先も次々と、「辛いこと」を呼び寄せてしまうようなのです。
母のいちばんのかなしみは、自分の息子から「その子育てが、失敗だったのだ」と今も突き付けられていることでしょう。
子供の幸せのために生きてきたことを全否定されて、心が弱る母。
でも、どんな言葉や感謝の思いを娘として投げかけても…
かなしいかな、自分で「幸せ」を選ばない限り、母はそこには行けないのです。
その母に、もちろんこれからも…出来ることなら母が自分の人生に満足を感じられるよう、寄り添っていたいと私は思っています。
きびしいようですが、あえて言います。
自己犠牲は「偽善」です。
「善」は…喜んで、楽しんでいることだと思います。
自分が喜んで、楽しんでいるところに、他者と喜びや楽しみを共有し、そしてほんとうに必要なことがもたらされる。
そのように、私は自分自身や周りの人たちの経験から確信しています。
とは言え、母の子育てが「失敗」と、結論づける気持ちは毛頭ありません。
母の子育てを否定した私の弟の言葉は、まだまだ人生なかばのもの。
今は辛そうに見える母だって、それはほんとうに「辛さ」だけなのか?
この先、深い歓びに気づくのかも知れません。
人生の意味と奥行きは、ほんとうに計り知れませんから。
そもそも「その子育ては、失敗だった」と他者(親であっても)を批判するのは、そのように言う本人の問題です。
年齢に関係なく、そのように言う本人が成長過程にあるということです。
どんな子育ても、ある方向から見れば「成功」で、別の方向から見れば「失敗」なのです。
「これが正解」というものは、どこにも存在しません。
どこにでも喜びや学びがあり、それを誰だって、ある時は見過ごしたり、ある時は見つけたりしながら、日々を過ごしているのです。
それを前提に、お伝えしています。
子供の幸せはお母さんの幸せから。
ひとりひとりのお母さんの幸せに、切に寄り添いながら、これからもこのブログを配信していきます。
あなたにしか出来ない子育てのために