木内昇『茗荷谷の猫』(文春文庫)を読みました〜。
タイトルの茗荷谷(みょうがだに)や池袋、巣鴨、本郷、浅草など東京の町が舞台になった9編の連作短編集。
幕末から高度経済成長期までの当時の町並みが描かれていて、池袋在住・丸の内線ユーザーのわたしは親近感が湧きつつ新鮮な気持ちで読み進めることができました。
この物語に一貫しているのは、登場人物が何かに執着していること。
新種の桜の開発に心血を注いだり(「染井の桜」)、
鬱々とした気持ちが晴れる特効薬作りに勤しんだり(「黒焼道話」)、
時間がわからなくなるほど絵を描くことに没頭したり(「茗荷谷の猫」)、
借金を抱えながら自分の文学を追求したり(「仲之町の大入道」)、
誰にも煩わされない自由な暮らしを目指したり(「隠れる」)、
開戦直前だというのに映画監督になる夢を諦めなかったり(「庄助さん」)、
戦後の混沌とした中でも心の清さを保っていたり(「ぽけっとの、深く」)、
大好きな母の野暮な振る舞いが許せなかったり(「てのひら」)、
散歩をするたびに西洋風の家に見とれてしまったり(「スペインタイルの家」)して、彼らは一生を過ごします。
彼らは自分の惹かれたものに向かって一心に突き進みますが、歴史に名を遺した「何者」かになることはなく、無名のまま生涯を終えたり、自分の志をまっとうすることができずに無念な最期を遂げたりします。
後世まで語り継がれる「何者」の影には「何者にもなれなかった人」が大勢いるわけですが、両者の違いはタイミングが合わなかっただけ、つまり「運」だけだったのではないか?
と思わされるくらいに「何者にもなれなかった」登場人物たちはひたむきに生きていて、その姿に「憐れ」を感じて胸打たれました。
「憐れ」という言葉は、けっして「かわいそう」なニュアンスだけで用いられるものではありません。
基本はそんな意味ですが、ものがなしいとか、しみじみと感慨深い気持ちになる、とか、強く胸に迫ってくる、というような、とらえにくい心の動きをあらわすときにも使われる言葉で、相反する感情を持つ人間ならではの言葉です。
わたしはこの物語を読んで、「憐れ」も悪いもんじゃないなぁ・・と心惹かれました。
ものがなしさの中にきらめく一筋の光を確かに感じたからです。
登場人物たちが生きた痕跡は、各編に少しだけ登場します。
たとえ名が刻まれなかったとしても、彼らの営みがひっそりと誰かの人生に登場しささやかに誰かの心を動かしている姿が描かれていて、こんな風に自分の生も(そしてこのブログも)ささやかに誰かの胸に残るといいなぁ、と思わされました。
自分が「これだ」と信じることに没頭している人は、どんな人でも心惹かれます。
そして誰に何を言われても揺らがずに自分を信じ続けた生き方をすることこそ「自分の生をまっとうする」ことなのではないか、とも思わされたのでした。
自分の生をまっとうした人々の煌めきがいつまでも胸に残る素敵な短編集でした。
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