夏目漱石『虞美人草』(新潮文庫)を読みました。
『虞美人草』は『吾輩』なみのボリュームなので、きっと途中で挫折してしまうだろうなぁ・・と思って学生時代は手に取ることすらなかったのですが汗、読んでみると意外にもすらすら、おもしろく読み進めることができました。
夏目漱石『虞美人草』は、ふたりの女性の間で板挟みになる文学青年の身に起こる悲劇が描かれた長編小説です。
ふたりの女性のうちのひとり、藤尾は紫の着物が似合う勝気な女性。
文学青年・小野清三と惹かれ合いますが、お互いハッキリとした話はせず、むしろ曖昧な関係性を楽しんでいました。
藤尾には腹違いで病床の兄と未亡人の母がおり、また亡き父が口約束で交わしたいいなずけ・宗近から好意を寄せられていることも知っていましたが、藤尾は宗近の俗っぽい性格が気に入らず、小野との結婚を胸の内では望んでいたのでした。
宗近は藤尾の兄・甲野の友人でもあり、繊細な甲野を笑い飛ばし、突然思い立って甲野を京都旅行に誘い出すような豪快な人物でした。
そんな凸凹コンビの京都旅行の最中、なんの因果か、ふたりは小野の頭を悩ますもうひとりの女性と何度も顔を合わせるのです。
もうひとりの女性は、小夜という名のおとなしい女性。
5年前に京都で小野がお世話になった井上孤堂先生の愛娘で、お世話になっていた当時に小夜を妻にする口約束を交わしていたのでした。
東京と京都で離れていた5年の間、小夜の母が病気で倒れ、生活に困窮した一家はいよいよ小野を頼ろうと上京を決意し、ふたりで汽車に乗り込みます。
小野は孤堂先生への恩義から誠を尽くそうとしますが、上京した先生には自分しか頼りのないことを重荷に感じ、小夜との結婚の話が出るたびに苦い思いを隠せません。
自分の心のままに従えば藤尾との結婚を進めたいけれど、孤堂先生への不義理をするのも寝覚めが悪く、 藤尾と小夜との間でどうにも動けず板挟みになってしまうのです……。
この物語では「語り手」の存在が明確にあらわれ、彼らの関係性を俯瞰して語り、小野が藤尾と小夜の間で板挟みになる姿が際立つような場面展開の工夫がなされています。
「語り手」が真骨頂を見せるのが、藤尾と小夜が邂逅する場面。
東京で行われる博覧会に小野が孤堂先生と小夜を連れて行った際に、同じく見学に来ていた甲野と藤尾、宗近と宗近の妹・糸子が小野たちの姿を発見し、藤尾は顔色こそ変えないもののひそかに激高するのです。
藤尾の我が強い様子と小夜のおしとやかだけれど頼りなげな様子が対照的にうつり、その後の悲劇へ向かうまでの重要な転換点としてこの場面が強く印象に残りました。
小夜たちが上京してからも、小野はどちらにも振り切れないまま膠着状態を続けますが、しびれを切らした孤堂先生に詰められ、小野はとうとう決断を迫られます。
しかし小野は悪者になりきれず、知人を介して孤堂先生に断りを入れてもらおうとするのですが、そこから展開は暗雲が立ち込め、悲劇の結末へと向かっていくのです。
この物語は、男女の痴情のもつれによる悲劇であり、不義理はするものではないという教訓譚でもあり、ふたりの対照的な女性の生き様が際立つ女性物語でもあるともいえる、多面的に解釈のできる物語だと感じます。
この物語でわたしが強く印象に残ったのは、小野の優柔不断さに対して宗近が放った強烈なセリフです。
「真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。遣っ付けなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。(中略)
君もこの際一度真面目になれ。人一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。」(420頁)
どちらにも中途半端な態度をとっていた小野には、この言葉がどれほど響いたでしょうか・・。
この台詞での「真面目になる」ということは、覚悟を決め、責任を持って自分の決めた道に進むことなのだと解釈します。
小野は結局、どの道にも決めきれず、覚悟のないまま口約束を交わしたゆえにズルズルとした状態を引きずってしまいます。
一方の宗近は普段から俗な冗談は言ってもいざというときは覚悟と責任を持って行動する男で、ラストシーンでは宗近の豪傑さがひときわ際立ちます。
ここぞというときの態度こそ、人の本性があらわれ出ると思います。なんかがさつだし荒っぽいけど、宗近っていい奴じゃん・・と見直しました(誰目線)。
最後まで読んで、わたしはこの物語を「優しさの毒におかされてしまった悲しい女性の物語」だと感じました。
藤尾は小野の優しさが「優柔不断」という名の毒を含んでいたことに気が付けなかったんですよね。
お互い好きなことを匂わせ合いながら、自分の我を受け入れてくれる関係性が心地よくて、小野の後ろ暗い面を見抜くことができなかった結果、あんな悲劇が訪れるとは・・痛ましいかぎりです(´;ω;`)
初出(1907年)から110年以上経ちましたが、「優しさの毒」はいつまでもなくならずにいます。
たくさんの人間がそれぞれの思惑を持って生きている以上、優しさの毒はどうしても出てきてしまうものだと思います。
わたしたちに出来ることは、優しさの毒があることを知って、なるべくあたらないように気をつけて、そしてある時は「真面目になる」ことぐらいなのかなぁ・・と思いました。
家制度の違いはあれど、令和の時代でも共感する人が多いのではないかと思った板挟み文学でした。
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