「どうして作家になろうと思ったのですか?」


数年前に、ある作家さんにこんな質問をしたことがあります。


興味本位で聞いてみただけで、他意は特にありませんでした。
当時、その作家さんが主催するライティング講座を受講して予想以上の「書くことの苦しみ」を味わったところだったので、その作家さんが書き続ける人生を選んだ理由が知りたかったのだと思います。


作家さんは少し間を置いてこう言いました。


「うーん、業、かな」


業。
ごう?


言葉の意味はなんとなくわかります。
もうどうにも止められず、そうせざるを得ない、強い欲求?のようなもの。
けれど、正直、そのときはピンときませんでした。


その場ではついわかったようにうなずいてしまったのですが(恥ずかしい!)、そのときから「業」とはなにか?どうしたら「業」だとわかるのか?という疑問が自分のなかの奥深くで根を張ったのでした。


それからずいぶん時は経ち、「業」についても忘れかけていたのですが、この本を読んで「業」について思い出し、あのときの疑問がふたたびにょっきりと顔を出したのです。




サマセット・モーム『月と六ペンス』(新潮文庫)


この物語は、40歳にして絵を描くことを決め、これまでの人生すべてを投げうって画家に転身したひとりの男の邪悪で幸福な半生が描かれています。


画家の名前はチャールズ・ストリックランド。
架空の人物ですが、ポール・ゴーギャンがモデルとされているようです。


絵を描くことに目覚める以前のストリックランドは、イギリスで株式仲介人の仕事をしていた平凡な男でした。
妻との仲も良好で、子どもにも恵まれ、平凡だけれど不自由のない暮らしをしているようにまわりの目には映っていました。


ゆえに、彼が40歳にして画家への転身を図ったときのまわりの衝撃はすさまじいものがありました。
ストリックランドはある日突然、別れを告げる手紙を残し、家も仕事もすべて捨ててパリへ旅立ってしまったのです。


妻はヒステリックになり、物語の語り手である作家の「わたし」にストリックランドが出ていった真相を突き止めるように懇願します。


「わたし」は行きがかり上断り切れず、また、作家としての好奇心も手伝いストリックランドの意図を探りにパリへ向かいますが、そこで出会ったストリックランドは以前の印象とはまるで違う、邪悪さと並々ならぬ情熱を持ち合わせた人物へと変貌していたのです・・・。


「描かなくてはいけないんだ」
「当たって砕けるつもりですか?」
ストリックランドはこちらをまっすぐにみた。その目には奇妙な表情が浮かんでいて、わたしは居心地が悪くなった。
(中略)
「おれは、描かなくてはいけない、といっているんだ。描かずにはいられないんだ。川に落ちれば、泳ぎのうまい下手は関係ない。岸に上がるか溺れるか、ふたつにひとつだ」
ストリックランドの声には本物の情熱がこもっていて、わたしは思わず胸を打たれた。彼の内では、激しい情熱が苦しみにあえぎながら暴れているかのようだった。とてつもなく強烈ななにかが、いってみれば意志とは関係のないところで彼を駆り立てている。
(79頁)


この場面を読んだとき、ブログ冒頭で話した作家さんの言葉を思い出しました。


これは「業」だ、と思いました。
40歳であろうと、妻子がいようとおかまいなしにすべてを捨てて絵に向かうストリックランドの姿は、作中でも「悪魔に憑りつかれたようだ」と描写されるほどに鬼気迫るものを感じます。


なぜかはわからないけれど、生きるための三大欲求以外の自分の中に消えない衝動を「業」というのだろう、ということをこの場面を読んで納得しました・・・。


画家としてのストリックランドは、絵以外のことに一切関心を持たなくなります。


自分が満足する絵を描くためにはどんな努力も惜しまないけれど、身なりや立場、他人に対しても一切の興味を示さず冷酷に扱います。元妻と子どもに対しても「知ったことか」と嫌悪感をあらわにします。


少し余談をはさみますが、彼の自己中心な生き様は以前読んだビジネス書『GIVE&TAKE』に登場する「テイカー」の典型例のように感じます。




テイカーは利己的であるだけでなく、まわりにいる「善良なギバー」を惹きつけギバーの能力をことごとく吸い上げる残忍さを持ち合わせているのですが、この物語ではストリックランドに搾取されるまさに「善良なギバー」が登場するのです・・。



語り手「わたし」の友人として登場する画家・ストルーヴェはストリックランドの絵を評価した最初の人物でした。


ストルーヴェはストリックランドの才能を評価するだけでなく、病に倒れた彼を自ら助けてやり、妻と共に自宅でつきっきりの看病をしてやるのです。


ストリックランドは献身的なストルーヴェに対して冷淡な態度を取るだけでなく、ストルーヴェの道化をあざけり、最終的には彼の妻とアトリエを奪い取ってしまうのです・・。


ストルーヴェはストリックランドの仕打ちに痛ましいほどに打ちのめされてしまい、「わたし」はストリックランドを責め立てますが、ストリックランドは全く意に介さず、さらには奪い取ったストルーヴェの妻に対してもほとんど執着せず、ストルーヴェ夫妻は悲惨な末路を辿るのです。


人の人生を台無しにしておきながら、ストリックランドの良心は疼くことなく自分の満足のいく絵を描くためにふたたび自己の世界へ入り込んでしまうのでした・・。


その後、ストリックランドの消息はわからなくなりますが、時を経て、南国のタヒチで「わたし」はストリックランドの最期を知ることになります。


ストリックランドは最期まで画家として絵を描き続け、病でこの世を去ったことを知ります。


「わたし」がストリックランドの最期を知った時にはストリックランドの作品が高値で買われるほどに評価されており、ストリックランドの最期を聞いたのちに彼の絵を目の前にすると、彼の並々ならぬ情熱と人生をかけて追い求めた美の集大成のようなものを感じ、「わたし」はその作品を傑作だと思ってしまうのでした・・・。


この物語は、最期まで読んでもストリックランドへの共感はみじんも湧きません。
むしろ嫌悪感が増しますし、まったくもって理解不能な人物としか言えないのですが、この物語を読んでただひとつだけわかるのは、ストリックランドは「幸せ」な人生を送った、ということなのです。


これは作中でストリックランド自身が「幸せだ」と明言しています。
他人の人生を踏みにじっておいて、なんて自分勝手な・・・!!とワナワナ震えますが、語り手の「わたし」はストリックランドのわがままな生き様がある種の魅力があることを見出してしまいます。


自分の情熱に誰よりも忠実で、その情熱の達成のために努力を怠らなかったストリックランドは官能的な魅力を放っていたのです。
それがストルーヴェの妻を惑わせ、彼の絵は結果として多くの人を惹きつけたのです。


ストリックランドの生き方はまったく受け入れられるものではありませんが、「業」というものの引力の強さがいつまでも忘れられません。


タイトルの「月と六ペンス」について作中で言及はありませんが、「六ペンス」(日本だと5円玉的な?)はどこにでもあるもので、「月」はひとつしかないかけがえのないものという対照的な意味合いを持たせていると解釈できます。


ストリックランドの生き様はまさにかけがえのないものでしょう。
幸福な人生を送った邪悪な人間の物語は悪魔的な魅力を放ち、悔しいほどにわたしは惹き込まれてしまいました・・・。


邪悪なのに面白い。
ダメなのに、惹かれる。
矛盾したものを抱える人間は、ほんとうに罪深い生き物だと感じました。


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