戦後73年が経ちました。
この時期になると必ず手に取る戦争文学。
大岡昇平『野火』は、先の大戦下でフィリピンのレイテ島にいた一等兵・田村が肺結核の病のために軍隊から「戦力外通告」をされ、レイテ島をさまようという物語……。

戦地で「戦力外通告」をされたところで、帰る場所も頼る場所もない。要するに田村は隊から「見放された」ということであり、生きる希望など微塵も持てない状況で、行くあてもなく島内をさまよい歩くしかないのだった……。

平成生まれの平和に馴染んだ身に、彼の絶望は書き尽くせない。
フィリピンだったら熱帯だし、いろんな木の実とか果実とかがありそうだというイメージは現代人の都合の良いイメージで、そんなものはとっくの昔に食べ尽くされ、野草を食べたり配給されたわずかな芋をかじったりして飢えをしのいで生き延びるしかないのだった。

この状況下において「野火」は人間の気配を感じさせるものとして描かれている。
火は人の手が加えられないとおこせないからだ。レイテ島における野火は二種類あり、草などを焼くための野火と、敵軍からの戦線布告=狼煙の意味で用いられていて、遠くからでは判断できない。
田村は島をさまよいながら数々の「野火」に出会う。
しかしそれは後者の意味ではなく、現地人が逃げ出した村にたどり着いたり、生き別れた隊の病兵たちとの再会をする際の合図のようにあらわれる。

田村は島をさまよいながら、偶然がもたらす運命の皮肉さと、人間存在の限界について思いを馳せる。

田村は戦地にいながらも敵を討ったことはなかった。しかしあるとき銃を使って人を殺めた。
人間が極限状態に追い込まれたとき、現代生活の「倫理」を軽く飛び越えてしまう。凄惨な現場で田村は自分が犯した罪を思いながら、人肉を喰い生き延びようとする同胞に「制裁」を加える……。

読みながら吐き気がした。
生々しい、グロテスク、残酷、凄惨、どの言葉も当てはまらないような地獄絵図。そこから奇跡的に「生き延びて」しまった田村の苦しみが言葉の端々で感じられる。
ブログタイトルにした引用、

「戦争を知らない人間は、半分は子供である。」(195頁)

というのはあるいは真理かもしれない。
先の大戦から73年も経ってしまった。いい意味でも悪い意味でも長い時間が経った。

わたしたちは先人たちのおかれた絶望を忘れてはいけない。
もちろん二度と戦争なんて起こしてはいけないと強く思う。
けれど一瞬こんなことを考えてしまう。こんなに文明やITが発達してしまったいま、銃や爆撃機なんてわかりやすい武器じゃなくて、もっと簡単で狡猾な武器が出来上がってしまっているんじゃないかと。
「平和であれ!」と叫ぶ子供は、追い詰めたれた「大人」には届かないのではないか、と。

人間の想像力は、倫理なんてものを簡単に吹き飛ばす。
悪魔的な想像力の果てしなさが本当に怖い。
あーでもないこーでもないとブログでつらつら書ける平和な国にいてもおめでたいことしか浮かばないかもしれないが、それでも、戦争をふせぐには、戦争をなくすにはどうしたらいいんだろう……ということは頭の隅にずっとあるし、こういう文学を読むたびに思いを馳せていきたいと思う。
最低でも、ちいさいことから争いの芽を摘む努力はかかせないと思っている。

結局平和なまとめである。
モー娘。を聞いて心を落ち着かせたい。