「……ぼくは、ぼくの好きな人が信じるものを、一緒に信じたいです。……それがどんなものなのかまだ全然わからないけど、ここにくればわかるっていうんなら、おれ来年もここにきます。わかるまでおれはここにきま、えー、くることを、おれはおれの好きな人に、約束します」(199頁)


もし、自分の好きな人が、自分の常識からすると「信じがたいもの」を信じていたとしたら。
わたしはこの台詞のように、緊張しながらもきっぱりと宣言できるだろうか。

今村夏子『星の子』は、読みながら試されている感じがずっとあった。

主人公のちひろは生まれたころから身体が弱く、絶えずなんらかの病気にかかり続け、両親の手を焼いていた。
ちひろの健康のために両親があらゆる手を尽くし、たどり着いたのが「金星のめぐみ」という不思議な水だった。

一見するとただの水なのだが、その水を染み込ませたタオルで身体を拭くと、どんな治療を試しても治らなかったちひろのアトピーがみるみるうちに改善し、完治したそうだ。
その後ちひろはすくすくと育ち、昔では考えられないほどの健康優良児になった。それから両親は「金星のめぐみ」の母体の宗教的な団体に身を捧げるようになり、ちひろもその団体の集会へ定期的に参加するようになる……。

えっ、水?
宇宙のパワーが染み込んだ、水?
いやいやいや、ありえないっしょ。

でも、何をやってもうまくいかなかった娘のアトピーが治ったんだから、とにかく、なんらかのご利益があるに違いない。

でもさぁ、いくらなんでも頭の上にタオルを置いて「金のめぐみ」をタオルにかけるって。いやもうギャグじゃん。
ギャグなのを大真面目にやってる大人を見てるといたたまれないよー。

こんな感じで「常識的なわたし」は読みながら脳内でツッコむ。
でも、愛する娘の命が救われた水を、むげにするなんてできないよなぁ。そのままのめり込んでもおかしくないよなぁ。
と同時に「同情的なわたし」が分析する。

この物語を読み進めるうちに両方のわたしが脳内で騒ぎ出して、
だまされてるからやめたほうがいいよ!
という声と
たとえ世間からずれていたってそれで幸せならいいじゃん!
という声に板挟みになって悶絶した。

この物語には、どちらの声も実際に登場する。
「だまされてる」と両親に言い続けた親戚のおじさん。
公園のベンチで「金星のめぐみ」をかけ合う両親を見て「二匹いる」とつぶやいた中学校の先生。
「金星のめぐみ」を拒み続け、家を出て行った姉。
「……そうか」と言ってちひろの話を最後まで聞いてくれる同級生。
集会で毎回顔を合わせる友達。

ちひろはどちらの声も聞く。
両親が信じる「金星のめぐみ」を未だに飲み続けているものの、自分では効果がいまいちわからない。
どうやら両親は「金星のめぐみ」や宗教的な団体に莫大なお金を費やしているようで、ちひろの家はどんどん小さくなり、両親の格好はどんどんみすぼらしくなっていく……。
だからと言って両親と仲が悪いわけじゃなく、むしろとても仲が良いから、親戚のおじさんの言う通りに両親と離れて暮らしたくはない。

ちひろもある意味板挟みの状況だ。
そんな立場にいたときに、自分の行動の指針になるのは「好き」があるかどうかなのだろうなと思った。

冒頭の引用が個人的に胸に響いた。
怪しげな団体だからとか、得体の知れないものだからと言って、その人自体を否定するのはおかしい。そもそも、良し悪しで語れるものじゃない。
何かに悩んでいて、たまたまたどり着いたものがちょっと世間からずれたものであっただけだ。
どちらもあってしかるべきことなのだと思う。
とは言え、サリン事件みたいなケースもあるから、奨励したいとも思わない。

今村夏子『星の子』は、そのどちらの声も打ち消さずに、並立した生き方を描こうとする。

ちひろの家族は否定されたり受け入れられたりしながらなんとか生きている。
たとえ生活がどんどん切迫していたとしても、仲良く生きていけるのは「好き」をなくしていないからだ。

怪しいと拒絶する前に、「好き」があるかどうか、だ。

どうしようもない理不尽なできごともあるし、不公平なことだってたくさんある。
それらから自分の好きな人を守れるならば、ちょっと世間とずれていていいじゃないか。とは思う。

『星の子』は、どちらかであれ!という安易なことは言わない。
「ややこしいもの」が浮き彫りになったとき、あなたはどうする?と始終問われているような気持ちになった。

できればわたしも冒頭の台詞みたいにかっこよくいれたらいいけれど。

独特な世界観にのめり込みっぱなしになった一冊だった。