子どもじゃないけど大人でもない。
ちょっと背伸びしたいけど、あまり重いものは抱えきれない。
うわすべりした会話は退屈だけど、妙に居心地が良いと思っている。
離れたらそれまで、という人が多い。
過去を振り返るほどなにも成してきていないし、将来を考えるほど切羽詰まっていない。
本当はいろいろ考えないといけないんだけど、今は何にも考えたくない。
 
28歳のわたしは「高校生」というワードでこんな感じのイメージが浮かぶ。

ついでに自分が高校生のときをざっと振り返ってみるが、まぁ、だいぶ調子にのっていたなぁ……という感想だ。笑

髪を染めるのは校則違反だから、パーマをあてて、前髪をギザギザに切って、まゆげを消滅させていた。
大塚愛、ミヒマルGT、バンプオブチキン、ラッドウインプスあたりが全盛期のころで、毎週水曜日(水曜だけ授業が早めに終わる)に友達とカラオケに行ってはこれらを歌い狂っていた。
一年のほどんどは制服なのに古着系ファッションにハマり、学校帰りに古着屋に寄っては派手柄の洋服を何着も買っていた。
 
お酒もないのにやたらハイテンションで、声がデカく、通行人からしたら本当に「ウザい」存在だったが、いま振り返ればめっちゃ「青春」しているし、高校生という身分を十分に発揮している過去の自分が尊い。

テンションやファッションから滲み出る「ウザさ」は、自分の将来や今抱えている悩みを紛らわすために、防衛本能的にしていたのかもしれない……と町屋良平「しき」を読みながら思った。
 
町屋良平「しき」は、高校生が抱える矛盾、悩み、情熱など、言葉にできない感情のうつろいや葛藤を描いた物語だ。
 
この物語には「語り手」が明確に存在し、高校生の内面を絶妙にすくい取る。

主人公のような視点で語られるのが「かれ」。「かれ」は自分自身に重大な悩みを抱えている訳ではなく、異性にもたいして興味を持たないのだが、弟の反抗期やいつも河原で寝そべっている幼なじみ・つくもの後ろ暗さにあてられ、言葉にできない悶々とした感情を抱えるようになる。

ある日観たYouTubeの「踊ってみた」動画は「かれ」のうっくつした気分を紛らわすのに最適な手段だった。
「かれ」は動画のダンスを一目観たときから忘れられず、「ものにしたい」と強く思った。それは「語り手」に言わせるところの「感動」や「性欲」に通じる内なる熱だったのだが「かれ」はそこまで気づかない。「かれ」はそれから毎晩公園で練習するようになる。
 
「かれ」はダンスをしながら、「かれ」の周囲について思いを馳せる。

ちょっと好意を抱いている同じクラスの女の子のこと。
いつも昼食を一緒に食べている阪田と草野のこと。
おそらく学校にも行かず、頼る家族もいないであろうつくものこと。
弟の暴言のこと。母のヒステリーのこと。

自分のこととなると漠然としてしまいとらえどころがない。とりあえず「かれ」はダンスをものにするべく踊り続けるのだった。
 
語り手は「かれ」の視点だけでなく、阪田、草野、クラスの女子、「かれ」の弟などに視点を変え、それぞれの内面を映し出す。

語り手はまるでドキュメンタリー映画のカメラのように、場面を細かく変えながら、彼らの「四季」を追い続ける……。
 
「踊ってみた」動画は実在する動画だ。↓


 
動きがけっこう複雑で、ダイナミックさもあり、マスターするのはかなり難しそうなダンスだった。
これがマスターできたらすごく気持ち良いだろうなと思った。
 
「かれ」はダンスに夢中になることで、はっきりしない悶々とした気持ちと自分の意志から距離を置こうとしている。
弟はいつまでも反抗期を続けるつもりなのか。
つくもはこれからどうやって生きていくつもりなのか。
そして自分はどうしたいのか。
 
なぜ距離を置くのかというと、すぐに答えの出ない考えや悩みを抱えきれないからだ。

それはある種の反抗、反発だ。「かれ」は母親に「うるせーババァ」と言わない代わりにうっくつした気持ちをダンスにぶつける。
ダンスで汗を流し、ついに友人・草野を巻き込み、二人で動きを合わせる練習をしながら最終的に動画投稿を目指す。
この発散の仕方は、なんて健全なんだろう。

高校を卒業して十数年も経つと、こういう健全な発散の仕方がただただ懐かしい。
いまでは自分の悩みは生活に直結するものばかり(仕事や人間関係)だから、発散の仕方もどことなく生活に通じたこと(ランニングとか読書とか)になっていて、まぁこの程度ならやっといて損はないよね、とか考えてしまってなんかすごくいやらしいなぁ自分と思うことがしばしばある。

「踊ってみた」を「ものにする」というシンプルさ、後先の“考えなさ”がわたしにはすごくまぶしい。

どうにかしてあの頃の尊い記憶をもっと思い出したい、と強く思った物語だった。