若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』の東北弁で思い出した、わたしにとって因縁の物語。
 
森敦「月山」は、無為徒食の日々を送る「私」が山形県の月山の山ふところの集落で一冬を越す物語。「私」はあてもなく月山に引き寄せられるように集落を訪れ、注連寺という寺の一部屋に住まわせてもらう。
 
注連寺は大きな寺だが参拝客はなく、集落に着いた頃の「私」は周囲のあまりの静けさに余所者の来訪が部落の者にとってはあまり歓迎されないことだとうっすらと感じる。

やってきた頃は暑さもあったが、やがて雨が降り、それが雪になり、あっという間に積雪になる。
到来した冬の厳しさ、「吹き」の強さに「私」は身を縮めるが、なおも屹立とそびえ立つ月山と鳥海山の景色に呑み込まれ、この世ならぬところに迷い込んでしまった心地になるのだった。

冬が来ると、集落の人々は闇酒を売り、寺に寄り合い酒盛りをする。集落の人々の「私」に対する冷たさは酒を密造していることの後ろめたさからだと知り、厳しく貧しい冬の暮らしを耐えてでもこの集落に居続ける人々に思いを巡らす。「私」はこの集落の人々もこの世ならぬ者に思えてくる。そして自分もこの世ならぬ者に感じられてくるのだった。

無為徒食の「私」にはそれが居心地良いのだが、時おり現世の未練を感じて言いようのない寂しさが込み上げてきて「私」を惑わす。
そうこうしているうちに、集落は春を迎え、この世ならぬ空間が去っていく気配を感じながら「私」は“現世”へ戻ることにする…。

大学の研究は森敦だった。
縁あって森敦研究ゼミに入り、注連寺にも訪れた。山形では研究もそこそこに飲み食べまくった記憶ばかりが浮かび、肝心の研究は行き詰まって唸りながらゼミ生と議論を交わした苦い思い出が込み上げる。
卒業論文も森敦で、論考がまとまらないのに締切が迫りくる絶望感が鮮明に思い出された。

「月山」でわたしの人生は狂わされた。
物語に呑み込まれた。大学を卒業して5年以上経った今でも物語を読んで書くことをやめられない。
「月山」は読む者に何か勇気を与えるものでなければ、感動に打ち震えるものでもない。「私」が何をしようとどう思おうとそびえ立つ月山と鳥海山の山並みに圧倒されるだけの物語なのだ。
「月山」には物語が何も与えないという衝撃、凍てつく寒さの孤独と絶望感、少しの安らぎがあるだけだ。
当時のわたしはどうしてこんな物語が出来上がるのか興味が湧いて仕方なかった。その好奇心が今もずっと続いているのだ。

森敦、月山、という単語を聞くだけで条件反射で胸が痛む。
人生を狂わせたきっかけを今日読み直したが、いまだに「月山」がどういう物語なのか捉えきれずがっくりときた。
わたしの好奇心がやまない、ということだけが強く残った一冊だった。
 
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懐かしい写真を添えて。