谷崎潤一郎「痴人の愛」とは趣が180度異なる、清らかな恋愛物語だった。

この物語の主要人物は、37歳のツキコ。人並みに仕事をし、自立して生活しているが恋人を持たず、一人でぶらぶらと近所を散歩したり近所の居酒屋で一人飲みをするのが常だった。

いきつけの居酒屋で偶然居合わせたのが高校時代の国語教師・松本春綱先生だ。松本に声をかけられるもツキコは名前を思い出せず、「センセイ」と呼ぶ。30歳は年上の老紳士とツキコは酒の肴の好みがよく合い、センセイに声をかけられてからはその居酒屋で居合わせたら一緒に飲むことが習慣になった。

親子ほどに年が離れているのに、一緒にいると居心地が良い。「肴の好みだけでない、人との間のとりかたも、似ているのにちがいない。」(12頁)と確信するツキコは、センセイとの応酬を愉しむのだった。

センセイとは近所の飲み会だけでなく、八の市やキノコ狩り、お花見、さらには島に出かけることもあった。一緒にいるうちに、ツキコは居心地の良さだけでなく、センセイのぬくもり、一人でいることの寂しさ、センセイへの恋心を感じるようになっていく…。

もう一度言うが、清らかな恋愛物語である。センセイは先生らしく、真面目に律儀にツキコと相対する。ツキコはひねくれた物言いながら、素直にセンセイへの想いを打ち明ける。

センセイの気性はもちろん、年が親子ほどにも離れているから、年の近い異性とのようにはスムーズに事は進まない。旅先の宿では別々の部屋に泊まり、夕食後センセイの部屋にいらっしゃいと言われツキコがドキドキしながら入るもいつものようにお酒を飲むか句を作る(!)だけ…。お互いに好意はあるようだけれど、じれったい…。
けれど、同年代の異性には絶対に出せないセンセイの「気配」をツキコは愛おしむのだった…。

「いつの間にやら、センセイの傍によると、わたしはセンセイの体から放射されるあたたかみを感じるようになっていた。糊のきいたシャツ越しに、センセイの気配がやってくる。慕わしい気配。センセイの気配は、センセイのかたちをしている。凛とした、しかし柔らかな、センセイのかたち。わたしはその気配をしっかりと捕らえることがいまだにできない。掴もうとすると、逃げる。逃げたかと思うと、また寄りそってくる。」(196頁)

タイトルの「センセイの鞄」の意味は、最終部で明らかになる。
ツキコの好意は真面目に伝わり、センセイからも真面目な返答をもらうのだが、最後はどうしてもウルっとてきてしまう。

清らかすぎて、凪いでいるようにも見えたが、確実に育まれていた恋愛物語だった。

{8E91322F-C69D-4503-B969-A2D0FFC402A9}